なぜ情報ソースに拘る(こだわる)のか。むしろなぜ拘らないのか。

テレビで観たこと、ネットで見たこと、映画で観たこと、本で読んだこと、友達が言っていたこと、好きな芸能人が言っていたこと、親が言っていたこと、先生が言っていたこと。

全て疑っている。何よりも、お前が真剣な面持ちで俺に言ってくることを疑っている。

それは、お前を信頼していないからとかお前が救いようのないアンポンタンだからとかそういう理由じゃない。「どこ情報だよ」「ソースは」と俺が言うのは、むしろお前の力になるためだ。変なことを口走らないように気をつけている。

俺が何を信じるのかって、自分が納得できるまで根掘り葉掘り聞いて、あらゆる可能性を考え、あらゆる引き出しを開けて、少なくとも俺の中で整合性が取れたときにそれを唯一信じている。それだけを信じるしか他に方法が無い。どこかの誰か(あるいは集団)が実しやかに言っていたことなんて一切信じられない。それを信じるような脳の回路は俺の中にない。いやある。ちょっとはある。信じてしまう気持ちも分からんでもないが、なんで信じてしまうんだとも思う。なんで信じた?

◆平坦な信頼

まず、普段の生活では「信じたい」とも思ってない。信じることをいいこととも思っていない。悪いこととも思っていない。ただ、お前のことを信頼はしている。が、それも「お前が正しいことを言っている」ということについて信頼しているというわけではなく、その点については全力で疑っている。俺は、お前が人間であり心を持っていて泣いたり笑ったり怒ったりするという点について信頼している。

つまり、俺がお前を信頼しているポイントは全人類に対してそう。お前を疑っているポイントも全人類に対して同様。その点において俺はお前のことをプラスにもマイナスにも特別あつかいしない。そして、さっき言った「全人類」には俺自身も当然含まれていて、俺は俺が目撃したものとか聞いたものについて出した結論を疑っている。俺の日ごろの言動を自分で疑っている。正しかったのかと。そうは見せてないけどね。とくにこのブログは、そういう疑っていることについても記事にしている。寧ろそのためにあるブログです。無責任に書いて捨てるためのブログです。

◆人間を信じること

基本的に、対面で具体的な話をしているひとを信じてはいけない。言っていることが本当であろうとなかろうと、人を信じてはいけない。自分で認知するほかないという縛りがある以上、相手の言っていることが妥当であるかどうかを主観的に疑うしかない。だからこのブログに書いてあることを信じてはいけない。俺がお前に話していることについて、それを信じてはいけない。

理由は単純で、俺は正しいことも言うし正しくないことも言うから。自分では正しいと思っているみたいだけどね。それでも世間一般に抗いたくなるという難儀な性格をしているから、わざと逆のことを言ったりもする。さらに言えば、明日、頭を強く打ったりしたらお前みたいなノータリンに変貌することだってあろう。お前から物とか感情を搾取しようと試みるかも知れない。誰しもそうであるように俺は変化する。

そういうことで残念ながら、お前は自分で自分を信じる以外ない。誰も信じてはいけない。TRUST NO ONE.

言っていることを聞いて考えて正しいかどうかです。人が正しいかどうかではないです。人を信じちゃ駄目。

◆信じません

信じないということは、嫌いになるってことではない。信じないってのは、それは、信じないということ(トートロジー)。

「信じてくれないの?」とか言われたら「疑わせてくれないの?」って言い返すことは可能ではある。ただ「信じてくれないの?」とかほざくやつに言い返したとて物事が好転するとも思えねぇけど。

ただ、信じて良いポイントだってある。それは、さっきも言ったけど相手が人間であるということ。人でなしでもとりあえず人間でしかない。理解できない言動をしていても人間。知能に障害があっても人間。脳死してても人間。黒人でも白人でもユダヤ人でもネオナチでも人間でしかない。相手が人間であるということについては、誰に対しても無条件に信頼できる。それを知っていることは(なぜか)心理的に大きなアドバンテージたりうる。裏切られないと確約しているから。

よくわからんだろう。が、後に回す。

相手が人間であるということを信じてもいいんだけど、それだって別に好きになってもいいって意味ではない。なんでも許せばいいってわけじゃない。憎んじゃいけないってわけじゃない。罪を無かったことにすればいいわけじゃない。

とはいえ憎む機会は減る。そういうもの。

◆約束

約束とか誓いとかあって、それを信じる信じないという話がある。

まずもって約束も誓いも信じる必要ない。信じてもいいけど、信じる必要がない。普段の生活では信じてもどうにもならない。約束に縋ってはいけない。というかそもそも相手に約束させてはいけない。約束は束縛だから。約束縛なんだから。

約、「将来について互いに取り決めをする」。束は束ねる。縛る。それが約束。

相手に約束させると自分も約束に縛られることになる。誠意として約束の達成に期待をしなければならない。そして、生意気にもお前は「(約束に)縛られたって構わない」と言うが、そんなん別にどうでもいい。勝手に縛られてろマゾヒスト。そうじゃなくて、約束するにせよされるにせよ相手を縛ってしまうことが問題なんだよ。

縛っちゃ駄目ってことはない。縛られて力を発揮する人もいるし。でも無自覚に縛ったり縛られたり破ったり破られたりしているから「なんか楽しくない」って体験が積み上がってるんじゃないの。

よくわからないだろう。俺さっきからよくわからないことしか言っていない。なんといえばいいのか。とにかく、約束というものをするなさせるな。された約束を信じてはいけない。信じたところでプラスになることがそんなにないから。破られた時に焦るし悲しくなるから。約束が達成されたときも、それが当然だから「ありがとう」ってそんなに思えなくなってくる。

約束をするのは、約束でしか相手を安心させられないとき。あるいは書類で契約するとき。まだあるかもしれないが、とりあえずどうでもいい。約束しねぇほうがいい。するときのコツとしては、約束について自覚すること。一切の逃げ道を作ってはいけない。覚悟で約束するものだ。するほうでもされるほうでも。

◆曲解

伝言ゲームは、ひとの認知というフィルタを通る。お前は、客観的な事実を話すべき場面で主観的な事実を話しているよな。だから俺はお前を信じていない。

ただ、そのことについてお前を否定してもしょうがないってのも知っている。主観とはいえ事実なんだから、否定できない。認知が歪んでいる人と喧嘩しても堂々巡りにしかならない。頭がおかしいのだから。だから、話して整頓するのがいいんだよね多分。「ここはどうなっている」「一言一句間違いなくそういったのか」と。結果いつもオメーが悪い(とは言わんが、全てはお前の行動次第である)と俺は言うけど、まぁわかってくれてるっぽいよね。

というのと、「自分は他人より優れている」「自分は強い」という曲解をしているひともいる。してもらった批判に口答えすることになる。非を認められなくなる。もっかい言うけど、自分すら信じてはいけない。

何も信じてはならねぇ。

自分はクソ人間であると自覚し、クソ向けの改善サイクルを爽やかに回そうよ。お前もお前以外の人間も全員クソカスだからなんの問題もない。卑下する必要もない。全員がド無能なんだよ。全てにおいて優れている人間なんていない。だから、他人はどうあれ自分を疑いながら改善していくしかない。

◆泣いている人を信じること

相手が泣いてしまうことはしょうがない。だが、泣く人が言ってることを無条件に信じるのは甘え。相手も泣きたくて泣いてるわけじゃない。同情して欲しがっているわけじゃない。そこでシビアになれないから、先送りにするからまた泣かせることになった。自分が悪役になれば人を救うことができるのに。ちろっと目から液体出されたぐれぇで芯をグラつかせんな。信じるな。つまり、相手を盲目的に信じることで自分が悪役になることを回避しようとしてんだよ。

どんなときでも、相手のことを思って全てやれ。他にして良いことなんてない。自分の存在が枷になるんなら突き放して忘れさせろ。相手に「自分は嫌われた。自分はダメな人間だ。」と思わせてはならん。「あいつは取るに足らない小さい人間だった」って、そう思わせてあげたほうがいい。嫌われたっていいんだって。自分に関わってくれた人が幸せであるかどうかが結果なんだよ。自分が好かれたかどうかは結果じゃない。

◆信じろ

話逸れてない?

っていうので信じるなという話をしてきた俺ですけど、これから信じろという話をさせて頂く。

うん。全部を信じて、全人格を信頼してくれ頼むから。

何も疑っちゃいかん。なぜなら疑うことは悲しいことだから。そしてお前が疑っているってことはアイツにバレています。信頼していないことはバレてます。「疑われてる」って気づかない人もいるんだけど、それでも疑っている空気を感じて行動が変わる。

どうすべきか。信じてください。信じないから、疑い続けたんだからそりゃ誰もお前を信じてはくれない。緊張を解いてはくれない。委ねてくれない。こっちを理解してくれない。悲しい関係になって心の壁ができる。

それはテメーがまず相手を信頼していないからそうなるんです。決して相手が愚かだからではない。

目の前にいる相手の言っていることを、うんって信じて、飲んであげることから始まる。何が始まるって信頼が始まる。なにか言ってんなと思いきや予想以上に本気の言葉だったりするんだよ。それを「はいはい」って聞き流してしまうのは最低最悪の失態だ。

なんであろうと真剣に聞いて、信じろ。正座して聞けと言ってるんじゃない。スマホ触ってても鼻ほじってても目を瞑っていてもいい。どんな体勢であっても真剣に聞いていれば、相手を信じていれば、それだって相手に伝わるものだ。悲しいことも楽しいことも話してくれるようになる。秘密のことも打ち明けてくれる。会った時に笑ってくれる。それはなんとも言えず素晴らしいことで、言葉にならないくらい嬉しいことだ。

興味を持っていないことでも、相手にとって意味のあることを話しているんだと信じて聞けよ。精一杯やってるんだと思って聞けよと。もっと詳しく言えば、話しかけてくれたという事実だけでもうご飯三杯くらい信じられるんです。

考え方としては、全てが正しいという認識を持つこと。ちょっと難しいこと言うけど、例えばお前が何かの行動をしてみせた以上、それがどんなに悪いことでもどんなに不条理なことでも思慮に欠けていても、それは正しい。そうしてしまった理由が必ずある。嘘も本当もなく、理由がある。意識的にやったのか無意識なのかは関係なく理由がある。それは正しい。信頼に値する。

相手が人間であると信頼すること。相手の行動には理由があるのだと信頼すること。それらの信頼は原理的に裏切られようがない。

◆信じ切る

信じ切らないと、信じた分が無駄になって終わる。ちょっと信じて引き返して様子見て「裏切られた」みたいなことやっててやだ。信じ切れば裏切られることはないんだよ。信じている途中で裏切られたからってそこで辞めるな。それは「信じた」とは言えない。他者を諦めるな。こっちから関係を捨てるとか、人を選別してんじゃねぇよ。何様だ。

信じ切ってないから相手が裏切っただけなんじゃないの?あるいは、無茶な約束をして相手を束縛したんだ。例えば、言ってることが既にもう裏切りそうな人でも、ノーガードで愚直に信じ倒せばなんか協力してくれたりもするんだよ。信じ切らない人に、信じ切った後の世界を見ることはできない。

◆信頼に足る理由

「優しいから信頼する」「~をしてくれたから信頼する」「家族だから信頼する」はおかしい。ありだけど、おかしい。

できることならば純粋に、一切の理由なく信頼しなければならない。気分で信頼する/しないを決めてはいけない。恣意的に理由を排してから信頼する。人格を信じるのです。それ以外を全部疑えばいい。

◆社会で信頼されること

他人からされる信頼がある。けど、信頼する能力を持ち合わせている人がそもそも少ないわけだから、こっちが信頼可能な感じになってないと信頼してくれない。

他人から信頼を得るには、っていうか信頼を得ることが最終的な目的ではないんだが、とにかく人に言わせること。どんな外れたことを言われても、それを最後までうんうんと聞き切ること。そして、相手が、想定しうる最高値の賢さを持っているのだと全面的に信じること。言い逃れしているとか自分の利益を守ろうとしているって疑わないこと。ものを知らねぇ馬鹿なのかと疑わないこと。そういう風に人を疑ったって意味ない。その偽りを暴いても意味ない。「やっぱりバカだったわw」って、そんな成功体験ゲロ吐くほどどうでもいい。うんうんって聞いたら最後は「自分がどうするか」でしかないし、相手がどうであるかではない。そこで人を見限るのはクソムーブだろ。お前の能力が低いから、人を助く能力がないから、信頼する能力に欠けていたから見限らないといけなくなったんだよ。

他人を疑う暇があったら自分の愚かしさについて検証したほうがいい。

俺の言っていることがいくら正しくても、信頼されていないと誰も聞いてはくれない。だから相手から信頼されないといけない。信頼されないと、目前の相手すら救うことができない。幸せになってはくれない。笑ってくれない。

上司も部下も間違っていることを言ってるんじゃなくて、それぞれにとって正しいことを主張しているんだよ。それは聞いてあげないといけない。争っちゃいけない。やり方/言い方が腐ってても一緒に段階を踏んであげるしかない。ある点において偶然自分が先行しただけに過ぎないんだから。

◆裏切られ

自分が裏切られたのは、自分が裏切られたということでしかない。「次は疑うぞ」とか「ひどいやつだ」とか、そういう話じゃない。なんでそうする。ちゃんと言えばわかってくれるんだよほんとに。

「ちゃんと言う」っていうのはかなり難しい。その「ちゃんと」ができてるひとは本当に少ない。意図を伝えきれるだけの言葉を即興で組める人もいないし、意図をプライドとか弱さで無意識に汚す人もかなりいる。言われたことを聞く側にも信頼するという技術が必要になる。

っていうか、信じるな/約束させるなって言ったじゃん。信じるに値しないことを信じたから負の感情が発生したんだよ。てめぇのせいです。自分のせいで裏切られているに過ぎない。

油を火にかけて放置したのはお前だ。油が発火してボヤになったのは油のせいでもコンロのせいでもない。それと同じように、裏切られたのは相手のせいではない。お前がお前のなかで一方的に信じ、それが裏切られるように仕向けたんだよ。

厳しい話だけど、実際のところそうなんです。自分の行動で何もかも良くなるし、何もかも悪くなる。ひとのせいではない。お前は変なものを信じているし、信じないといけないものを疑っている。

だからこそ、何を信じて良いのかって考えないといけない。「そんなことをするとは思わなかった」「そんな酷い人間だと思わなかった」って、独りよがりな主張だよ。その「酷い人間」は人間である以上、どんなことでもしでかしうる。お前もしでかしうる。

相手のどんな態度も、それを考慮に入れる(前提にする)のは違う。人格そのものを承認しないといけない。魂を観察しなければ。

裏切られて自分が傷ついたことって分かりやすいからそれに縋り付きたくなるのは分かる。でも、考えてもしょうがない。ヘコむだけ。何をされたとて、相手をどう幸せにする、相手をどう成長させるって考えだけ持っていれば良いんだよ。そういう意味で言えば、社会とか対人関係はパズルみたいなもんだ。収まるように解けばいい。

◆曲解2

俺がお前を信頼していない場合、お前の言っていることを容易に曲解するだろう。目に見えるようだ。信頼する能力に欠けている人間とは会話が難しくなる。

◆人生相談

だれかに人生相談しても良いんだけど、精度出せる奴はそういねぇぞ。バランス感覚に欠けたとんちんかんなことを自信満々にテレビやネットで言っているひともとても多い。成功者であろうが本を出していようがご老人であろうが、それで人生の決断を委ねていい理由にはならない。

どのくらい信じているかはしらんけど。

具体的な「こうしろ」「こうするべき」をずっと言う人を信じるべきではない。行動はその人が考えて決めるしかないんだから。時間がないんならしょうがないけどね。それにしても、人からのアドバイスを実践するだけの人間は成長が遅くなる。成長しないわけではないが。

◆結論

何一つまとまっていない。

つまるところ、具体的なことは全部疑う。自分のことを何より先に疑う。そして、相手の人格とか知性を信じること。そうすれば何にも裏切られずに済む。

信じたり疑ったりして不幸な気持ちを生んではいけない。

そんな感じ。