The devil is in the detail.という言葉があって、日本語では概ね「神は細部に宿る」と表現される。

創作や建築において、神がかり的なもの、緩めに言うと感動するものは、細部こそ手抜かずに作られているものだよ。という風な意味を含めて使用される。

経験あるかわからんが、ハっとするような作品は細部がスカスカなんてことはない。「うおーなんかすげー!」っていう作品じゃないよ。「あっ。」って感じのもう物事の認識が軽く変わるやつ。嬉しくなるわけでも笑顔になるわけでもないんだけど息をのむような、認識したときに凄くて逆に少し落ち込むようなアレ。

◆ポケモンのアニメ

いましがた、ほんと久々にポケットモンスターのアニメを見た。見たんだけど、やっぱりちょっとイマドキというかネチャっとしていて、すんなりと入ってこなかった。

思ったのがまず、バトルシーンの描き込み。あれはなんだ。派手なだけで面白くない。でも、しっかりと枚数使って描かれている。くどいほどしっかり書き込まれている割にアップばかりだから何をしているのか掴みづらい。

あと、ピカチュウの動物としての個性が消えている。人間と変わらない意思の疎通ができてしまっているし、サトシの表情をコピーした表情ばかり。生きてない。意思の疎通はできていいんだけど、もはや阿吽の呼吸とかじゃなくて「言葉を話せない人間」くらいにまでなっちゃってる。

アニメを作っている彼らはバトルシーンをそれは詳細に書いたんだけど、その詳細さの価値はどれくらいなんだっけ。コストに見合ってる?ポケモンのアニメにおいてバトルの比準はどれほどだろうか。バトルシーンを表現するためのアニメだったんだろうか。

刃牙ならわかるよ。あれはバトルを突き詰める作品だからバトルを書き込まねばならねぇ。

でもポケモンでそんなとこにコストかけられても余計というかなんというか。時間の無駄っていうか。

(二世代までしか読んだことないが)ポケスペみたいなバトルなら描くのも価値あるんだけど、単に技の応酬になっちゃってて戦略とか無いし。

◆詳細の要不要

ポケモンで描くべくは、旅情、成長、そして、ポケットモンスターという世界の話です。ポケモンとヒトが世界にどう息づいているのか。

それを、今回は表現できたか?(ヒバニーというポケモンと出会う回だった。)

いや、たまたまならいいよ。たまにそういう回があってもいい。決してつまらなかったわけではないから。でもなんか…先生、心配になりました。制作リソースの使い方おかしくないかね。

※コロナのせいかわからんが、新シリーズが無料配信されているんで、見てみてもいいかもしれない。

ミュウって平原にいるかね。そういうそのリアリティというか「ミュウがいたとしたらどこにいる?」っていう質問に「その辺にいるんじゃない?」ってノリで返されるのはつらい。「そう…」ってなっちゃう。興味を失う。”とくべつ”だったのになぁ。

ポケモンは所詮フィクションなんだけど、その野生の生物を「舞台に配置」してんのが気に食わない。そうなってくるともう、露骨に社会性を獲得してんのすら気に食わなくなってくる。

ヒトの情緒をポケモンで置き換えてもしょうがない。「ポケモンならでは」「ポケモンでしか成しえない」表現があるじゃないですか。ポケモンを人間に置き換えても成り立つんじゃ芸がない。さらに言えば、人間的な媚をピカチュウがやってんのは、変だ。猫とか犬が人間のアイドルのように媚びるか?ねぇだろ。

描くべき細部を見失っちゃって、見栄えだけどうにかしようとしてスカスカになってんだよ。

細部に宿るんです。お前がメインと思っている物語の、その周りにある細かいものが大切なんだよ。もっと噛み砕いて具体的に言うと、日常のしょうもない表現とか自然、物理現象に着目して描けや。

▼アニポケの何が突き刺さったか

ちょっと話がそれてきたんだけど、言っておく。

初代アニポケ(ポケモンのアニメ)は第一話から感動したように思うし、バイバイバタフリー、ピカチュウの森、ニャースのあいうえお。ニビジム、クチバジム、ヤマブキジム。妙にケチャップが好きなピカチュウ。放送当時五歳かつ一度しか見ていない話でも、スジを結構明確に思い出せる。タイトルはさすがにググったが。

それは、心に入りやすかったからじゃなかったか。知識としてじゃなく記録としてじゃなく、心に残ったアニメだった。俺はあのポケモンというアニメを見ることができてよかった。そう言える。

つかもう、「ポケットにファンタジー」だからね。センスが馬鹿げてる。戸田昭吾とたなかひろかずは狂ってる。子供向けのアニメにこんなエンディング曲を持ってくるというセンス。

◆アニメだけじゃないよ

物語はなんにせよリアリティが手触りになる。

じゃあ、曲という作品は?歌詞の語の選択肢が少ないボキャ貧だと引っかかる曲を作っちゃうのはそうだし、最近だと音楽の基礎をすっぽかしてる人多い。聴けばわかる。バレる。

基本から逸脱するのって、基本を知らないと変なことになる。必要な細部を見失う。フツウじゃない曲が多い現代だけど、そのフツウじゃない曲のカッコよさを表面で捉えてそれに追随してしまったよね。

それは、「ガタガタな曲」だよ。なんで急に変拍子をねじ込むの?本当に必要があって差し込んだの?能の不足を誤魔化そうとしてねじ込んでないかい?

何を詰めれば良いのかわからなくなって、技巧を積んだ。でも増やしたものを細部まで磨いてもしょうがない。

◆細部の自動生成と職人技

いい時代ですよね。ゲームエンジンがあればサクっとゲームも作れるし、DTMで音楽も作れれば、ペンタブでいい感じにデジタルな絵も描ける。

昔はアニメーションを作るって言ったら当然、書くっきゃない。1から10まで書くしかない。詳しくは知らねぇけど。

何が言いたいかっていうと、アニメとかゲーム作成に簡単に手が届くようになったがゆえに、乱造も増えたよねってことだ。昔はそりゃもう「ゲーム作りてぇ」「アニメーション作りてぇ」という動機を強く持っている人間、才気を持った人間が多くいたはずだけど、今は何となくで作れてしまう。

才気もなければ滅私もできねぇ「私生活が」とかほざいてる人をえいっとリストラしたら社会に怒られる。いやお前、なんで職人が必要とされる業界に「作品を世に出してドヤってみたい」的な脆弱な態度でつっかかってきたんだ。

まぁそれはいいとして。

「神は細部に宿る」の、その細部がテクノロジーにより自動生成されるようになってしまった。だから「細部が自動生成される!」っつって、そのまま何も作りこまなければ、何となく響かないアニメだしゲームじゃん。

手が届くようになるのは素晴らしいんだけど、細部への配慮が欠けているがゆえに傑作になり切れなかったゲームもあろうよ。最近は特に。

ハデであることを頑張って詰めても仕方がないじゃないか。誰の脳にも残らないよ。

前にも紹介したけど、例えば以下の動画は細部を詰めまくってるといえるだろう。

必要なものが敷き詰められてるんだよ。不要なものがない。今日見たアニポケは不純物ばかりだった。

◆結論

現実はいわば、「細部しかない」ようなものだ。人の気持ちも細部ばかりで、そもそも生き物が生きているのが細部のかたまりだ。それを見落としている。目につくものだけを見ている。人の目を見ずに言葉だけを聞いている。栄養を知らずに「お腹すいた」だけ気にしている。「木を見て森を見ず」ならぬ、山を見て森を見ず。森を見て木を見ず。木を見て葉を見ず、根を見ない。根に生きる菌根菌の存在を知らない。植物の根について知らないから木を切り倒した。崖崩れが起きて人が死んだ。

自然における枝葉末節は、それが存在する理由なくして存在しない(緩叙法)。その存在理由を知らなければ当然、表現が漏れる。細部を取りこぼさずに観察して表現に活かしやがれ。

◆余談

神曲を編曲者のオナニーに再利用するな。

この仕事にヒャダインを起用するな。話題性で起用するな。使いどころおかしい。ヒャダインの無駄遣いだ。なんでこの仕事を美しくこなせると思ったんだ。適才適所って言葉があるだろうが。ヒャダインはヒャダインでヒャダインっぽい仕事を望まれるわけだから、こういうゴミ編曲になっちゃうじゃん。

編曲者が個性を出すってのがそもそもおかしい。だから、個性的な作曲をする人に編曲を依頼するのはおかしい。思った通り余計な事をしてんじゃん。元が「これ以上何も削れない曲」だったこともあったけど、違いを出そうとして騒がしいだけになっちゃったじゃん。編曲済みのものを編曲、つまり完全なものに何かをつけ足しても悪化するだけだ。起用したいんだとしたらもっと自由にアレンジさせるべきだった。

アニポケのド名曲たち(さっきの「ポケットにファンタジー」を含む)をバシバシ作詞していた戸田昭吾兄貴も、スマブラのフィギュア説明文で駄文を乱造していたしな。「アレができたならコレもできる」は安易。大事なのは適才適所。