絆はクソである。縁(えん、えにし)で人付き合いするべきっす。
という主張をこのブログで三度くらい書いてきた気がするけど、その話をまとめておく。あまり長い文章を書きたくないので要点だけに絞りたい。無理かも。
以下、「人との縁」を省略して縁と記述します。実際の縁はもうちょい広い意味を持ってる気がする。
◆きずな
絆、紲、きずな、きづな。動物を繋ぎとめるための綱を語源としている。語源的には「きづな」っぽいけど、地震も今は「ぢしん」ではないしな。
「絆す」という言葉もありますね。
ほだ・す【×絆す】
「絆す」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
- つなぎとめる。〈新撰字鏡〉
- 自由を束縛する。→ほだされる
◆絆
絆という単語自体に罪はないんだが、世間一般での通用のされかたが恐ろしい。絆のメリットばかり喧伝されてデメリットが無視されがち。
▼絆チェック
何よりも本当に許せなくてゾワゾワするのが
絆を大切にして助け合う✨
みたいな認識だよ。いやアナタ、絆があるから助け合うんですかね?絆があるから赦しあうんですか?それ絆が繋がっていない人はどうでもいいんでしょうか。対面していても絆が繋がるまで他人で、他人だから大切にする必要がないんでしょうか。
目の前の人間が自分との絆を持っているかどうか随時判定し、評価値によって相手の幸福を祈るかどうか決める?自分の誠意を捧げるかどうか決める?
私、そういう生き方は愚かで不幸で不実だと思います。そんな寂しくてつまらない考え方は捨てたほうがいいよ。終わってるから。
なんで先に降りるのか。何を恐れているんだ。逃げられる姿勢で背中で声を聴いて人付き合いをして何を生み出せるというの。
▼絆という言葉の正しい使い方
絆は人を縛る綱だ。昔の人は上手いこと言ったもんです。絆が深まるなんてことはなく、絆は強くなって強く縛る。
絆は主従と契約と信奉。束縛。つまり雇用主が被雇用者を絆したり、アイドルがファンを絆したり、飼い主が犬を絆したり、教祖が信者を絆すこと。そして親が子を、子が親を絆すこと。夫婦が互いに絆し合うこと。債権者が債務者を絆すこと。
世に生きる個々人の人間関係がそのまま絆として表現されるのは不穏だ。逆に、絆を手放せるかどうかで愛を見出すこともできよう。あらゆる状況において絆を手放せないのであれば、そんな関係性は病んでいる。綱を緩められず引き続けることしかできないのは病んでいる。
▼絆を質に取る
人間は社会的動物ですから、ほかの人間と関係性を構築できないと不幸や妬みを感じがち。だから絆を関係性そのものと誤認させれば脅迫に使うことができる。絆を質(しち)に取って強制できる。
絆に甘えてわがままを言うくらいなら可愛いものだが、アイドルとかネズミ講とかって商業に落とし込めば絆を叩いて金を払わせるようなことができる。実生活に於ける人間関係の構築に失敗して孤独を感じている人とか、人間関係が下手で楽しさを感じられていない人に対してイージーな絆を提供し、見返りに金銭を要求する商売が成り立っている。イージーな絆に溺れた人間は納得して立ち止まりかねないし、人間関係の構築能力が劣化しうる。支払いと見返りへの執着が強化されたり、既存の縁が蔑ろにされたり。
とはいえ孤独よりもマシっていうか救いなのかもしれない。恋の努力をしない人がAVで満足して性犯罪せずに済んだりするように、アイドルやネズミ講や新興宗教や反政府活動という絆ポルノがあるおかげでテロとか拡大自殺の発生を抑えられているのかもしれない。場合によるかも。
▼絆は奉仕を期待する
絆人間は絆で相互扶助や恩送りを期待せず、その時々の奉仕を期待する。絆が奉仕の引換券になる。絆を良いものと誤解していると、絆をひけらかして行為をせびることが可能となる。
絆の存在を肯定したとき、無償の愛を捧げたつもりが絆で支払われたことになってしまうことすらある。無償の愛に対する最大最悪の侮辱は支払いに他ならない。返したい気持ちも否定しづらいけど本当にガッカリする。
絆があったから愛されたのだと、条件を満たしたから愛されたのだと、自分に魅力があるから愛されたのだと勘違いされるのは耐え難いものがある。条件を満たさなくなったときに愛の供給が止まるのではと恐れられるとか、そんな見くびり方ってないわ。どんな俗物だと見做されてんだ。自分の人生の根幹を構成する至高の原理に対して無理解な振る舞いをされるのはツラい。
▼絆は劣化する
絆は実体がないからメンタル次第で強まったり弱まったりする。あるいは状況や時間の都合によって強いか弱いか使い分けできるし絆に飽きることもある。絆は内心で好き勝手に強度を評価することが可能で、強度があるなら比較できる。絆が劣化した古女房を捨てて若い女に転ぶことができる。
▼絆は繋ぐか繋がないか選べる
何様だよ。ブチ転がしたろか。
▼絆がないと人生どうなるか
それはそれで面白みのない人生だ。絆のメリットは人に馴れなれしくできること。人に馴れなれしく凭(もた)れかかるのは幸せだし楽しい娯楽。心のおやつ。楽しくて美味しいけどビタミンでも必須アミノ酸でもないゆえ摂りすぎてはいけない。
◆縁
縁は絆と違って存在している。絆のように感じるだけのものじゃない。それだけである程度信頼できるわ。
意思疎通した時点で縁が発生する。絆があるかどうかとかではなく、その縁にまともに向き合うだけでいい。対面した人が何を持っているかとか自分に何をくれるかとか、そんなこと考えなくてよい。理解し易くて初動が早くて楽ちんぽです。
人と会うたび縁があったと考えて、縁をもらえたと考えて、降りずに人間関係するべきだ。「こいつとは絆がないからな」とか考え始めていいんだとしたら、それは自分自身も絆を持っていないことを理由に不当な扱いを受けてもいいって許容することと同じ。不当な扱いが嫌で一貫性のある応対を望むなら、まず自分が正当をやらなければならない。
▼縁は取引に使用されない
縁を縁(よすが)に人と関わるものだが、縁は人に何も要求しない。縁は脅迫に使用できない。クリーンで一定なエネルギー。ドライな喉ごし。
絆の測定に使う脳の計算力なんて要らない。これだけの絆があるからこれくらいを提供せねばならないとか考える意味ない。ただ単に縁があるから縁をやればいい。明朗快活。
絆は時に自己犠牲を強いるが、縁には自分の覚悟で自己犠牲を発揮できる。縁で成すことには絆で縛られない自由がある。絆と引き換えに何をさせられるかではなく、縁に自分が何をするかで人と関わっていける。
▼縁は開かれている
絆は閉じている。絆に感謝しても絆の相手方にしか感謝できない。縁に感謝すれば誰しもに感謝できる。だから恩送りができる。困っているとき知らない誰かから急に助けてもらえるし、困っている知らない誰かを急に助けることができる。それは縁があったからだ。絆のあるなしを考えはじめたら恩は流れず拡散もせず滞留して淀むのみ。
▼人間測定
絆という言葉に違和を感じずヘラヘラ行使できる人間は信用ならない。絆という言葉をヘラヘラ受け取って涙さえ流して見せる人間は気の毒だ。気の毒なので優しくしてあげましょう。
絆を愛と誤解する人間には優しくしてあげましょう。いやでも優しくすると付きまとわれるかもしれない。絆は人物を特定し継続を要求するので、例えば異常者を入院させてあげることは本人のためになるんだとしても絆に対する裏切りになる。
▼縁切り
良縁とか悪縁とか、縁を切るとかって表現もある。あるけど俺はそれを支持しない。縁は良いも悪いもなく、ただそこに在る。自分が縁に対してどう取り組むかでしかないはずだ。縁を良くするか悪くするかは自分次第だ。
縁からは逃れられないが、縁は別に何も要求してこない。
▼縁はドライ
世の中には絶対不変の悪人と思えてしまう人物もいるもんだが、その相手の不幸を祈って逐電しても世の中の不幸は終わらない。悪党には悪党になるだけの因だか縁だかがある。大変な馬鹿野郎だと思っても、相手の幸福はなんなんだと考えて接するのが巡り巡って自分のためになる。悪党や馬鹿野郎を絆に惑わされて庇っては不幸を起こすこともあるんで、通報して逮捕してもらうんでもいいし、自分じゃどうにもならないんなら離れればいい。相手が正常化するまで張り倒し続けるんでも良い。
◆結
絆はほどほどにしてあまり縛らず縛らせず。縁をよく見て己の意思で。気に食わん奴でも、縁があったし仕方がないなと真面目に取り組みたい。なるべく。頑張ります。いや特段には頑張りもしないけど。
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