時間無制限で倫理の問題を解いた。

https://www.toshin.com/center/rinri_mondai.html

けど「思ってた倫理と違う」と思ったのでブログを書く。

◆トロッコ問題

A氏は線路の上にある橋に立っており、A氏の横にC氏がいる。C氏はかなり体重があり、もし彼を線路上につき落として障害物にすればトロッコは確実に止まり5人は助かる。だがそうするとC氏がトロッコに轢かれて死ぬのも確実である。C氏は状況に気づいておらず自らは何も行動しないが、A氏に対し警戒もしていないので突き落とすのに失敗するおそれは無い。C氏をつき落とすべきか?

トロッコ問題 – wikipedia

これはC氏の人格による。

C氏が誰もを不幸にする人物であればC氏を突き落とすべきである。ただ、C氏についての誤解はあってはならない。C氏の人格を表面的に捉えるのではなく、完全に私利私欲で行動しているという確約がある場合はC氏を突き落とす。

※やべぇことを言う
俺は幸福至上主義であるから、幸福の一切ない人生に価値を見いださない。C氏が彼に関わる人全員を不幸にしている場合、C氏が幸福(安寧)であることは無い。快楽を得ているのかもしれんけど。将来的に幸福度が赤字である見込みが強い場合は生きることについて必ずしも幸福とは言えんし、また、C氏が人から奪った幸福については常に返済責任が発生している。少しのアクションでバランスを取ることができるのであれば、俺はそれを試みる。幸福は命よりも重いので、命で支払いを済ませられるのであれば安上がりだ。

あるいは、「いまの運用を続けていればいつかトロッコ事故が起きます」とC氏に十分に説明したうえでC氏が長期間取り合わなかった場合、C氏を突き落とす。それは(俺の選択を含めて)因果であり、C氏が生き残ってはいけない。たとえ遺族が悲しもうとも。

C氏を突き落としたことについて、ポリスには「C氏が『絶対に死なないから自分を突き落としてくれ』と言った」と説明をする。

C氏の人格について確証が持てないのであれば突き落とすべきではない。線路にいる5人の中に誰が含まれていようと全員死ぬ。5名を見殺しにしたことについては「気づきませんでした」としか説明できない。

C氏を突き落として殺した、あるいは5名を見殺しにしたことについては正当化することは不可能であり、主観的にはどちらを選んでも罪になる。詰みなので罪を背負わねばならない(激うまギャグ)。

5名死んだほうが悲しむ遺族が多いので全体幸福が小さくなるという問題があるが、つまりは関与する動機のあるなしの話なんです。C氏が幸福である場合、そこに関与して毀損することは出来ない。5人突き落としてC氏を救うシチュエーションでも同じ。人数の問題ではない。

「あるひとが死んでも苦しんでもしょうがない」という価値観を持つ人間が一定数いる以上、周りの人間から誤解されぬように生きるのが無難。誠実に正直に偽らず誤魔化さず説明をサボらず生きるのが無難。

「自分が死んで大勢が助かる」という状況であったら、それは個々人の判断に委ねられる。人に対して倫理観を強制するのは倫理に悖る。説くことは許されるが。

▼カルネアデスの板

カルネアデスの板状態はいわば野生の状態であると思う。判断に倫理が絡むと思えん。相手が自分を殺そうとしている状況だし、個々人のやり取りで言えば自分の命を守るのは当たり前だ。

ただ、野生ではない社会で同じ判断基準を適用するのは危険。利益のために他者を犠牲にすることは社会、ひいては自分の損失になる。自分の行動が巡り巡って自分に降りかかる。

倫理っていうか自分の不幸になるから他人を見捨ててはいけない。助け合って生きなければならない。情けは人のためならず。

◆動物を殺して食すべきか

豚を食うことに倫理的な問題はあるのか。知能が高いと言われるイルカを食うことに問題はあるのか。

問題はないし、問題がある。

つまり、個人がどのレベルで何に同情するかによる。イルカも豚も知能が高い生き物であるし、植物に知能がないという証明はできていない。また、原子や分子に意識がないという証明も出来ない。だから酸素分子を吸って二酸化炭素を吐く行為で酸素が苦しみまくっていると想定することもできる。

食用豚に同情して食うのを辞めろという人もいれば、シマウマに同情してライオンを絶滅させたいと思ってる人もいるだろう。あるいは「自然を大切にすべき」というのであれば、肉食を禁ずるのはその自然から逸脱させる行為だ。肉食自体は問題にはならない。

食うために飼育するということについても、なんかグロテスクだけどしゃあない。同情する余地はあるが、情と現実は違う。「情に依って行動を変えるべき」というのであれば、全財産をまずどっかの基金に寄付しろ。俺は誰かの心情を守るためだけにお前を傷つけるということをしない。正しさを基に人と接する。

であるからして、ご飯を食う時は奪った命に対して「いただきます」と思わねばならない。

「動物を殺して食うのは野蛮だ」と人に言ってまわるのは違う。「野蛮じゃないよ」で会話は終わる。社会規範に添えない且つ、社会から出る選択が自由であれば、自分が社会から出るのが当然だ。他の社会があるから。

そうしたくないのも分かるので、だから技術開発をしやがれ。人に洗脳を試みるんじゃなくて、たとえば「植物から肉っぽいものをつくる」とか「肉の細胞を培養する」とか、仕組みを変えるべきだ。人に行動してほしいんならテメーがまず行動しろ。口だけで喚いても嫌味を言ってもしょうがない。

植物から肉っぽい食品を作っても、肉の培養とかしても、根本的にはどうやっても他の生き物を殺してしまっている。他の生き物から奪っている。

◆フォアグラ、毛皮、革、象牙、犀角

倫理に反すると思う。

動物を殺すのが許されるのは、基本的に「補う」「保つ」ためだ。不要分を作るために生き物を苦しめたり殺すのは違うっていうか、利がない。利がない上に悪影響があるなら、すんな。

贅沢では心を満たすことはできない。心が満ちていないから贅沢をしたくなる。己の心を満たす行動をせずに、他の生命体を殺して充足するのは何の生産性もない。

自分を満たす人生を能動的に選択しろ。

とは言えフォアグラがあったら、美味しそうでヨダレが出るので俺は普通に食う。俺は倫理感を持っているが、それに殉ずるものではない。俺は俺の最大幸福のために行動する。蚊や小蝿等の害虫がいたら死んで頂く。

◆自殺は許されるのか

許す許さないの問題ではない。好きにしろとしか言えん。

自殺する意味がさほどないパターンがありふれているんで、それは問題だろう。その文脈で言えば自殺は許されるものではない。いまのところ迷惑だから。

例えば住宅街で迷子になったとして、袋小路に入りこんだとする。その時はUターンして別の道を通ればいいだけなのだが、「Uターンしてみる」「後ろ歩きしてみる」という選択肢を見失えばその袋小路で死ぬことになる。世界についての知識が無ければ自殺することになる。

「自殺することは許さん」と主張するのはありだけど、救った命には一定の責任を取る必要があるだろう。自殺を止めたいのであれば、可能性の提示、つまり教育が必要になる。「Uターンしてみれば?」みたいな。

安楽死制度もあっていいけど、運用面に気を配る必要あるのは当然。

お前「もう人生が嫌です…死にたいです…」

ローラ「オッケー♪(斬首)」

だと困る。

「あんたが自殺しても生きてても別に誰もどうも思わない」という事実についてはちゃんと知らせてあげるべき。気分で自殺させちゃうのはもったいない。自殺する意味があるかどうかを個々人で検証するべきだ。検証できない、あるいは認知が歪んでいるから自殺するんだろうけど。

「希死念慮を抱えている人間を網で捕らえるためのトラップとしての安楽死制度」があれば救われる人も多いのではって思う。窓口に来たら助けられる。何も言わずビルから飛ばれたり電車に飛び込まれたら助けられない。

「動物を殺したくないのです」とのたまうヴィーガンが窓口に来たら、それは救いようがないというか、生き物を殺さない選択肢ってどうやっても存在しないので安楽死してもらってもいい。自分で自分にかけた洗脳を解いてあげるんでもいい。

◆中絶

所属する社会の情勢による。

例えば、子供一人養うのも難しい貧しい村でいえば、産婆が障害児を死産扱いして〆ちゃうのもしゃあない。

つまり俺は、発生した命そのものを無条件に尊ぶことはしない。魂や信念を尊重する。俺たちは既に大量の命を犠牲にして生きている。魂のない何かより魂を獲得した誰かを優先する。そこで俺は一貫する。

あくまで優先順位の話であり、魂なき命を何でもぞんざいに扱うという意味ではない。

同じ理由で、デザイナーベビーについてもある程度許容できる。目が見えないだの耳が聞こえないだの指がないだのALSだのパーキンソン病だのアルツハイマーだの乳がんだの喘息だのアトピーだの嚢胞性繊維症だのって障害を防いで欲しい。ただ、遺伝子操作の副作用について検証することも人体実験になるからそれは賛成できないよね。肌の色を変えたりするのも賛成しない。子供は親の所有物ではない。

悲しいことに日本では「生んだ結果として長期的に不幸」がゼロではないんで、中絶も許されなければならない。仕組みが整っていない。

口だけで「中絶を許さない」というのもこれまた簡単で、意義を持たない。望まれなかった子供を産んだ結果について、フォローする仕組みを作れ。あるいは避妊について教育しろ。より手軽に避妊できる仕組みを作れ。行動しろ。

◆死刑

前にも話したから書かない。

◆差別主義者を差別してもよいか

差別に反対するのであれば、差別主義者を差別してはならない。思う自由、発言する自由を保全するべきだ。

差別主義者が差別されること自体は問題ではない。単なる因果応報だ。人を殴るときは人から殴られる覚悟が必要。その上で、「差別に反対する」というのであれば、差別主義者に対する差別はあってはならない。

「黒人が嫌い」と言った人に対して「黒人を嫌いと言うなんて」と怒るだけの人が多いんで、それは何の解決にもならない。黒人差別者差別であり、堂々巡り。

できることは「なんで嫌いなの?」を深堀りすることだ。嫌うのは単なる感情なんだから、緩和すれば嫌わずに済む。

「嫌い」と言われた黒人からしても、「黒人を嫌うな」って主張してもしょうがない。怒ってもしょうがない。凹んでもしょうがない。人の認識を言葉だけで変えることは出来ない(出来る)。社会を憎んだらなおさら嫌われる。だから自分から相手をまず愛し、行動せねばならん。

具体的な差別的仕組みについては反対するべきだが、個々人の感情について良いも悪いも言えない。緩和する働きかけをするほかなく、その働きかけは言葉でも逆差別でもない。愛だ。

そいで、誰しも「黒人が嫌い」という言葉により傷つく人がいることについては認識していなければならず、TPOをわきまえて主張せねばならない。「嫌い」=「死んで欲しい」に紐付けちゃう人が多いわけだし、意図を伝え切れる自信があるときだけ言え。さもなければ、お前は自分に与えられる不快感を許容せねばならん。俺がお前んちの玄関先で毎日立ちションしても良いことになる。人が何に傷つくのかってのはホントに予想つかない。不条理な理由で無駄に傷つく人もいる。一定の慎重さを備えつつ生きろ。

まとめる。

  • 「黒人が嫌い」と主張する人がいた場合、その人を嫌っても良い。でも「嫌うな」という主張は意味わからん。お前も嫌ってんじゃん。嫌うなよ。
  • 「嫌い」=「殺す」ではない。ニュアンスがあるはずだ。
  • 「黒人を嫌うのは差別だ」という主張は段階を踏めていない。論理が飛躍している。

もっとまとめる。

  • 差別主義者を差別する人は、感情で会話するんじゃなくて議論をしろ。
  • 差別主義者はある種の病気とも言えるし、病気だったんだとしたらそれを差別してもしょうがない。

◆クローン

全く同じ人間を作るのは問題あるけど、単に人間を作るくらいはどうでもいい。でも技術的に足りてないのを無理に造ったり、犯罪に利用されたりするのは怖いよね。

◆結論

正しい倫理観なんてものは無いと思うし、時代に依って左右されるものだ。だから人の倫理観について(現実社会で)とやかく言うことはできない。

という倫理観です。