まず推敲最高というタイトルすら推敲の対象ではある。
◆ブログの記事は推敲するべきなのか
しなくていいよ俺はするけど。日に1000アクセスも届かねぇ限界クソブログの記事を推敲する必要があるだとか思ってるやつは自意識過剰のファック野郎でした。書いて出せばいいんです。
でももう俺は自由に書いてしまうと尻がメツレツと音を出して割れてきて支離滅裂な文章になってくるみたいなくだらんダジャレばかりになるゆえ、俺にとり推敲は必要っぽい。
以下の引用は読む必要はないだろうか。いや、ある(反語)。ここまで読んで見切りをつけないくらい気の長い人間は読むだろう。
推敲(すいこう)とは、文章を何度も練り直すこと。
唐代、都の長安に科挙(官吏の登用試験)を受けるためにはるばるやってきた賈島は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧は推す月下の門」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」という語を思いついて迷ってしまった。彼は手綱をとるのも忘れ、手で門扉を押すまねをしたり、叩くまねをしたりしたが、なかなか決まらなかった。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の行列がやってきたのにも気づかず、その中に突っ込んでしまった。さらに悪いことに、その行列は知京兆府事(長安の都知事)、韓愈の行列であったため、賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に引っ立てられた。そこで彼は事の経緯をつぶさに申し立てた。優れた名文家であり、漢詩の大家でもあった韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬(韓愈)とロバ(賈島)を並べていきながら詩を論じ合った。
このことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。
推敲 – Wikipedia
推敲 NHK高校講座 ラジオ学習メモ (nhk.or.jp)(魚拓)
俺も「敲く」のほうが好いと思います。でも、音でいえば門扉を推すときのギゴゴ音も風情がありますよね。推すのほうが自ら進んで行く気持ちが感じられるのもある。この詩は題李凝幽居というタイトルで、詩中の「僧」は(略
上記の引用は、まさに推敲の気持ちが的確に表現されている。推敲のニュアンスは「どの表現が良いのだ?」を気にする心情。その心情を当たり前に持っている人もいれば、理解できていない、腑に落ちていない人もいる。
以下に俺が綴る文章について、それは推敲という言葉の語義を論ずるものではナッシング。正しい文章についての話でもない。俺が何か書くにあたって、書いたものをいちいち書き直す行動についての心理的背景をメモしている。
◆心構え
ガーっと読める文章を目指して書いているかも。引っかからない文章。あるいは、引っかかるにしても引っかかりの原因が分かった時に多少の納得感が提供される文章。
それを目指している途中なので、このブログの各記事はそうなっていない。俺は修行中である。
◆推敲内容
▼てにをは
わかりきった国語のルールに言及するための記事ではないのだが、俺だけ思ってるかもしれないことがあります。
俺野球好きだから
これ「おれやきゅうすきだから」「おれやきゅうずきだから」の二種類の読み方があってニュアンスがそれぞれ違う。俺も口で言うんなら「てにをは」は省略しがちだけど、文章だと入れるべきだわと思いはじめてます。抜いても書くけど。
▼長さ
一文を短めに書いている。口語だといいけど堅い文章を書くときは一文が長くなっちゃうこともある。長いと読むときの息継ぎがないのでちょいつらい。だからつらくする目的で一文を長く書くことはあったり。とはいえ一文が短い文章はブツブツ切れる感じして読みづらかったりもする。難しい。
▼主語述語目的語
私が猫を飼ってたとき頻繁にゲロを吐いていた。
国語に弱い人はこういったメタクソな文章を書いてくる。読んだら猫が吐いていたのだろうなと察することはできるが、正しくないので読めない。
書き直すとどうなるか。
私の飼っていた猫は頻繁にゲロを吐いていた。
私は猫を飼っていたことがあるが、その猫は頻繁にゲロを吐いていた。
私がかつて飼っていた猫は頻繁にゲロを吐いていた。
こう書くべきです。書き直す方法があるのは前提として持ち、自分の書いたものを読み直して書き直したい。
▼ら抜き言葉
「食べれる」「見れる」「やめれる」とか、頭悪そうに見えるので損。良い悪いはこの際よくて、ら抜きは損をする。箸の持ち方が汚いとか口を開けてくちゃくちゃ食べるのが損であるのと同じように。将来的には認識も変わって、ら抜き言葉も標準的に使われるようになっていくのかもしれない。ら抜きが方言として正しい地域もあるそうだし。でも今はまだ早い。
翻って、頭悪そうに読ませたいなら、ら抜き言葉を生かせばめろめろな文章に読ませれるとおもう。
▼強調の排除
・かっこ
「括弧」の「多用」は読みづらし。かくいう「俺」も数年前の「文章」を読むと「かっこ」を多く「使って」たりすっけど、なんだか「鼻につく」文章になるので「極力」やめたほうがいいかも。
・誇張
誇張はここぞするべき。
「とても」「すごく」「クソ」「めっちゃ」「死ぬほど」「泣くほど」「世界一」「やばい」「えぐい」とか、文中に一度出るんならまだいいが何度も読まされるときつめ。誇張はキツイ表現であるから「五千年前から~になってる」みたいな揶揄っぽい言い方も流行ったが、これまた寒い奴らがそれをラーニングしてチンケな表現にしてしまっている。
誇張じゃないけど「はっきり言って」「要するに」「ぶっちゃけ」「普通に」とかも書く必要ない。付け足したいんなら一旦そぎ落としてから付け足してIKEA。
▼たらちね
そぎ落とした文章は美しいんだけど、別に美しい文章を書きたいわけでもないので楽しい読み味にしとけばいい。
「見る」であっても「指をくわえて見る」「まじまじと見る」やら接頭に言葉をつけてもいい。表現が寒くなければ積極的に付け足すべき。古文や古典を読むと面白い表現が見当たるんで語彙を増やしたいなら読めばいい。
▼構造化
- 見出し
- リスト
- 引用
で読みやすくなるなら使いたい。ただし上記のリストは読みづらい。
▼繰り返し表現を避ける
文末がすべて「ですます」である文章は読みづらいかも。正式な文章なら語尾を統一して然るべきだが個人のブログならどうでもいい。
あと「思う」とか「感じる」とか「見る」とかって用途がオールマイティであるため、文章に繰り返し登場しやすい。絞った言葉があるんならそれを使うべき。見るは「見かける」「眺める」「観察する」「見守る」とか。
俺の文章は放っておくと「思う」「時」が何度も登場しちゃうので文字列検索で使いすぎてないか気を付けてます。
▼リンクを張るとか
人が読んで知らなさそうな某にはリンクを貼ったら便利そう。あまり使用されない熟語にはフリガナを振るのもよい。このブログはルビを使えないので()で仮名を振ってたりする。
▼技術記事は結論を一番上に
技術系の記事を時に書いたりするんだが、手順が確定しているものは一番上に結論という見出しを置いてそこに全てを書くようにしている。それは、俺が仕事しているときにわかんないことをググって出てきて開いた記事があったとして一文目から結論が書いてないとクソムカつくから。本当にブチ殺しきるぞと思う。だから俺は結論を最初に書いている。
◆推敲したくないこと
▼バランス
バランス感のある意見を書きたくないけど、俺はバランスを推敲してしまっているかも。
こんな匿名のクソブログではバランスなんて取る必要もなくて、偏ってたほうがいいかも。でも個人的に偏ったものを書くとザワザワするので推敲でバランスを取ってしまっている。両論を取らないと片手落ちの気持ちがして耐えられない。
▼恥
恥ずかしいことはここに降ろしていきたいです。でも本名とか、身元をさらしてないことが気になる。それって実質的には恥を書いていないということなのでは。恥を書くことのメリットだけを享受してリスクを負っていないっていう卑怯さを感じる。考えすぎか。
身元を晒すと所属とか実家に迷惑かかる可能性がミリあるので止めておきたいし、顔を晒してネットはしゃぎしてるのもキツいし。ネットはしゃぎは匿名のほうが見易い。顔が見えているとガチっぽくなって生々しい。
▼過去の記事
書き直さないかも。今読んだら恥ずかしいし危ういけど書き直さない。知らない。
◆結
どうでもいいから書くべき。ブログ書くべき。
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