チェンソーマンを読む前にファイアパンチ読んだ。

[1話]ファイアパンチ – 藤本タツキ | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

1話だけは無料で読める。

非常に優れた倫理観を備えた道徳的な漫画だった。読み解きするだけで倫理観がある程度伸びてくるんじゃなかろうか。

世にある「いまお前らが大切にしているものってこんなにクソで脆いんだぜ」っていうのを詳らか(つまびらか)にするタイプの漫画とか映画って、救いなく嫌なままで終わるか、あるいは収拾が付かなくなって全部を投げうって「なんか凄いことになりましたー」で終わるものが多いんだけど、ファイアパンチは問題提起からパターンの例示から理解の落としどころまで表現した。他にないわ。「世間で大事にされてるアレはこういった理由で頼りなくてゴミなんだけど、でもそれって見方を変えればこういうことだし、それはその人にとっても自分にとってもそうで、そもそもの話がこういうことだから前向きに生きて身近な人を大切にできれば嬉くて素敵なんだよ。」までやった。素晴らしい。

◆説明漫画

どういう漫画かって、説明の側面を強く備えていた漫画だった。物語にキッチリと埋め込まれすぎてて違和感がないんだけど、趣旨を理解したうえで読み返したら説明したさが凄い出てた。人生がどうで、人間がどうで、世界がどうみたいなことの説明が確と(しかと)、読者に寄り添った形で織り込まれていた。でも、特に意識せずに読んだら説明したさみたいなのは感じられないかも。

重要な単語をマジでどうにかなるほど、かつ自然に繰り返してくれる。「いまこれの話をしていますからね。誤解しないでくださいね。」の入れ込み方が素晴らしい。比喩の精度も極めて高い。ホスピタリティに溢れた優しい漫画だ。でも少なく見積もっても5割以上の読者は意図の30%も汲み取らずにコンテンツ群のひとつとして読み返しもせず終わりますよ。あるいは、誤解できる余地もないほど周到に描かれた説明を自分に都合のいいように捻じ曲げて解釈するんだろう。

それは漫画/物語の体裁を保って完成させた以上仕方がない。哲学書じゃないんだからしょうがない。際限ないほど丁寧に「こういうこと!」ってぶつけてもチャランポランは軽率に消費する。ラストも凄い丁寧に巻き取ってひとつの答えを出して了解です…って感じに終わってたけど、根底に流れるメッセージを観察できてなかったら多分これモヤっとして終わるぞ。

読めばわかる。読めばわかるんだけど「あれ、これ何か伝えようとしてるのか?」みたいな気づきが得られない人のほうが多そう。上から下まで目を通して終わっちゃいそう。

それを防ごうとはしてくれていて、重要な単語を本当に何度も何度も出している。シナプスが繋がるまで出してくれる。余計なノイズを、最終的には自然に取り払って必要なところを残してくれている。

▼フォロー

フォローが凄い。救いのない現実を見せて「あぁーーーそうじゃん。どういう方向に行っても人間ってダメじゃん。」を味わわせた後のフォローがよい。倫理観が本当に優れている。最後の最後まで隙が無かった。理解の糸口は荒れ荒れなんだが、その先の筋道を舗装して回り込んでフォローしている。

一般的には考えても仕方ないって扱われがちな不安について、掘り出して洗って料理して出してくれている。真剣に読解して汲み取れば、意識的な行動で生きることもできてくるのかもしれない。日常で引っ掛かっていたモヤモヤの論理的な構造がファイアパンチで読んだそれと相似であると気づいちゃうのかもしれない。自分にとって何が大切で何が取るに足らないことなのかって判定が効くようになるのかもしれない。

◆読んで思ったこと(読まんでよし)

登場人物の名前、即ちラベルが変わっていくのが特殊で面白い漫画なんだけど、太陽と月にしたのはなんでなんだろ?互いが互いに薪だったんじゃん?規模が悠久にまで広がったんなら太陽と月の比喩がもはや小さいっていうか嚙み合わない気がする。単に性の象徴として名前が太陽と月で、それらが根本的に相互補完関係にあるって意味か?でも月ってそんな太陽に天文学的な影響を及ぼしてなくない?太陽と月についてどの比喩を流用してるのか最終的にわからなくなった。

写真の苦笑いのところ、撮影した時の感情は実際どうだったんだろ。仮に妹を疎ましく思う感情であっても「そう思えばそうなるから良い」で構わないんだけど、個人的な興味として気になる。写真撮るんで緊張したとかって可能性も考えうるじゃない。

◆結

もうチェンソーマンも読んで追いついたんだけど、作り方が異なってんな。わかりやすくて面白いと思うけど軽く迎合してる感じもある。視座を低めに設定している。比喩とか整合性とかをファイアパンチほど詰めきってない感じもする。でもやることやったからエンタメとかジュヴナイルを好きに書けばよいわ。「誰それが死ぬときって普通は特別な猶予とかなく死ぬものだし仲の良かった人が死んだからと言ってその事実がどれくらい自分の中に残って精神に影響を与え続けるかってその人次第でしかない」が痛快でもある。文句なし。