ゆたぼん、ナイツ塙に一喝「老害」「こんなのになったらほんまに終わり」 髪型に言及され不快感あらわ: J-CAST ニュース魚拓

まだコイツやってんのか可哀想に。どうでもいいけど。ヘアドネーションするのに何でわざわざ髪染めてんのコイツ。襟足しか伸ばしてないし。なぜヘアドネーションしたいのかって、いま一度考え直したらいいんじゃねぇかな。

どうでもいいけど。(二回目)

どうでもいいとはいえ「学校行きたくなかったら行かなくてもいいじゃん」みたいな話で説得されちゃう人がいるのも嫌です。

というので勉強と学校について書く。できるだけ短めに書く。

◆前に書いたやつ

勉強する意味について書こうとして、エンジニアの勉強の話になったやつ。

◆勉強

「学知利行」なる言葉があってだな。中庸という

違うか(爆)

勉強する意味について、大人からのよくある回答としては「偏差値の高い大学に行って高給の会社に就職するため」である。が、実はそれらって幸福とはあまり相関のないことだったりもする。高い偏差値の大学に入ることも高給の会社に入ることも、幸せとはあまり関係ない。どこかの会社に幸福が落ちててそれを拾えば勝ちってんなら話は早かったんだが。

世間一般が言う幸福はあまりあてにならない。人に羨ましがられるけど自分では最終的になんとなく幸福じゃないとか、しっくりこないとか、地に足ついてないというか、そういう人生がある。己を一旦客観視しないと幸福と思えないみてぇな人生。

そもそも勉強ってなんなんだろうかって、熟語をそのまま読めば「めるようにいる」やつがそれである。強いられているんだ!

強いられたら、そりゃ面白いもんも面白くはなくなる。ゲーム好きであっても、やるゲームを決められて何時間やれと管理され、設定やパラメータが筆記試験になったらどうだよ。つまんないよ。

ここんところ「勉強」にはもはや強いられるという意味合いはさほど残っておらず、自発的にする学習も勉強とか言われているような気がする。自分に自分で学習を強いているって感じだろうか。

算数を学ばされることに異論はなかろう。でも数学とかやらされても実生活で役に立つとは思えない。実際のところ役に立つケースも少ない。じゃあ何のために数学させられるのか。学校で勉強したことなんて何の役にたつのって。

▼勉強の仕方を勉強するため

中学高校で勉強している具体的な内容は、身についても身につかなくても人生にあまり関係ない。が、勉強の仕方を知らない人生は可能性がとても狭まる。勉強慣れが必要。勉強をしているっていうか、勉強の訓練をしていると思えばよかろうて。

多くの人にとって、本当に楽しい学習は社会に出てから見つかる。その楽しい学習を効果的に実行するためには勉強の訓練が必要なんだよ。楽しい学習を知らないままYouTube見続けて死んでいく人生だってあり得るわけだし。能動的な娯楽のない人生はやばい。知的開拓の習慣がない人間はやばい。

連休とかもふらふらと勉強していればいいんだよ。自分に勉強させよう。連休明けが怖くなくなったりするぞ。

▼脳の開発

シナプスを形成する必要がある。勉強により物事を知ると脳に電気がビビビと走る。そのビビビをビビビビと流し続ければ、シナプスっていう脳細胞間の繋がりが強まるんですね。

脳は使うと性能が上がるし、使わないと底なしに性能が下がる。脳の性能が下がると、自分の気持ちを消化することすらできなくなって不幸な気持ちする。特に「ある物事とある物事の関連性を発見する能力」が重要でして、それは勉強をすることで培うことができる。勉強をしてテストで落第したとしても、勉強したってだけで一定の利得がある。ただし、その利益は実感が得づらい。

関連性を見出す能力が向上すれば、一見関係なさそうなことについての理解力が不思議と向上する。物事が腑に落ちるスピードが向上する。それは人生の幸福にわりかし直結している。

ただ「試験勉強をするシナプス」と「人生に必要なシナプス」は違うんで、猛勉強してもしゃあないところがある。娯楽により強化された脳領域が勉強に役立つこともある。バランスしてください。

▼いい大学、いい会社に行くため

逆のことを言うようだけど、いい大学といい会社に行くための勉強をしていい。中学校で勉強しないと馬鹿高校に行くことになるし、高校で勉強しないと馬鹿大学に行くことになる。

集まる人間の質が違っちゃう。すなわち人生の縁が変わる。半端な学校に行けば半端な人間が集まるし、それもそれで楽しいけど上に行くに越したことはない。本物のぶっとんだ馬鹿は頭のいい大学行ってるものだし、話が通じる人間は大企業に多い。

偏差値の高い学校に行けとか給料の高い会社に行けと言っているわけではない。自分の幸福を達成できる環境に行くためのパスポートとして学力が必要なんです。勉強さえ出来ていれば大学が選べる。人生の可能性を拡張するために、今のところ勉強が有用。選ぶ立場になるために勉強が必要。

▼読み書き

全ての勉強は文字と言葉ベースで為される。だから勉強に時間をかければある程度は読み書きの性能が上がる。書かれていることから情報を読み取る能力が強ければ、人生に有利に働く。

勉強しないことにより読み書きを怠れば、楽しいことに到達できなくなってもくる。楽しいことを受け取ったときにそれを処理する性能が下がる。

娯楽にも読み書きが大きく影響してくる。もしも読み書きする能力が無ければ小説も読めないし漫画も読めないしアニメのセリフもわからんし、そうなったらテトリスし続けるしかないです。

言語を操る能力は認知と思考の根底にぶっ刺さっている。例えば「前後左右」を意味する言葉を持たない人々は東西南北の全体方位感を持ちうる。

No.50 – 絶対方位言語と里山 – クラバートの樹魚拓

▼入り口を作る

ドアノブを知らない人にとってはドアもただの壁であって、その先に世界があるということはわからない。ドアの先にある世界の重要性も楽しさもわからない。だから、ドアノブについては学校かどこかで強制的に教えておく必要がある。さもないとドアを壁と認識する人間が発生する。

◆学校

納得してもらえたかどうか知らんけど勉強する意味はとりあえずいいとして、じゃあ、自分で勉強しとけばいいし学校とか行かなくていいじゃんね。ということでもなく、学校という施設にも行く意味がある。

▼人間関係に失敗するため

同年代との人間関係に失敗するために学校に行きましょう。かける恥を最速でかくために学校に行きましょう。クッソどうしょうもない如何ともしがたい関係のこじれとか感情のもつれをプレイするために学校に行きましょう。

つまり、社会を練習するために設けられた施設が学校です。そこでは人間関係を失敗しても負うダメージが少ない。学校は税金で通える人間関係トレーニングジム。

年を重ねれば重ねるほど人間関係を失敗したときのダメージがでっかくなるんで、先んじて転んでおきたい。転んだあとの起き上がり方を知りたい。そういう時に学校は便利。コミュニケーションを間違い倒すために学校がある。

おまえ「人間関係なんて俺の人生に重要じゃないわ」

そういう人もいる。でも、人間という種の成り立ちから言えばテメーにとって人間関係が不要である可能性はだいぶ低い(二重否定)。

ヒトは群れを成す動物だから、ちゃんとした人間関係をやれれば勝手に脳からきもちい汁が出て喜べる。人間関係で脳が喜ばないんなら、遺伝子の異常か、人間関係のやり方を今も失敗し続けているかのどちらか。随時のチャレンジをしない限り失敗は失敗のままそこにある。失敗が成功の糧にならないまま終わる。

大切な人といつか巡り合ったとき、失敗の経験が足りてないとキッツいことが起こる。いつだって一番失敗したくないときに失敗するものだ。だからより多くの失敗パターンを学習したい。

無難な学校生活とかやらなくていい。かといって学校からケツまくって逃げだして捨て台詞吐くのも違う。全面的に我を出して思ったことをグイグイしたればいいんです。二、三度は親を学校に召喚したいところ。

付き合いきれない人間とどう付き合うかって悩んで、時に自分の心を見つめなおし、少しずつ成長できる場所が学校です。仲間を作れないから学校に行かないってのは変な話じゃないか。仲間を作れないから、いつの日か仲間を作るために学校に行って人間関係を間違えばいいんだよ。群れる方法を知っている人間のほうが総合的にみて強度が高い。数は強い。

大人になってから孤独に陥るのは怖い。孤独の不快は遺伝子に刻まれているから、例えば自分の心を無自覚のレベルで騙せなければ孤独に耐えることは難しい。経済的にも孤独でいることはリスクが高すぎる。長期的に見れば子をなさないことはリスクが高すぎる。個のままでは自分がくたびれた時のサポートがないし、自分そのものが単一障害点になる。

部屋で心臓発作で斃れてハエに卵を産みつけられウジに食われながら溶けてカーペットのシミになって終わる人生は切ないわ。だからAppleWatchを買って自動で通報してくれるようにするべきっす。サンキュージョブズ。

自分のことを考えてくれる人がいるだけで、死との間に壁が一枚増える。幸せになってほしい誰かが一人いるだけで生の光がひとつ増える。それら以外は物質的な幸せであって、その物質の価値はふとした瞬間に暴落する。きっかけも何もなく、あんなに夢中で集めた物質群が自分にとってクソどうでもよくなるという恐ろしい現象が発生する。

人の縁で生きていけ。

▼学校つまらねぇ

学校でする勉強は、つまらん。お前は悪くない。オトナの過失なんで許していただきたい。

世の中に於ける優秀な大人の絶対数が少ないっていう感覚は概ね正しい。それゆえに優秀な教員も少ない。専門教科すら真の意味では学べていない輩もいる。それはなぜか?一個上の世代がやらせた勉強もまたつまらないものだったからです。お前は今そういうループの中にいる。

教育を受ける側もだいぶポンコツだったんで変な規則も増えるし教師の負担も大きいし、しょうがない。いろいろなことがしょうがない。

そこらへんの教師に人間性能を求めるのも酷な話で、かといって「お前の教え方がつまらないんだが」「お前を信頼できないから教示を聞くのに抵抗があるんだが」と事実をあけすけに言ってしまうとあのひとたち本当に怒る。

つまらないのが悪ってわけでもないし、まー色々な経緯があってそうなっているに過ぎない。ある程度の縛りはあるんだけど、ほどほどに付き合ってやれや。

◆結

そういう理解を私はしている。当時は別に何も考えずに学校行ってたけども。

社会は学校に行ってた人間の活動で成り立っている。通学が任意だったら果たして日本はどういう社会だっただろうか?

何かを強制されるのも時に悪いことじゃないと思える。

イジメられとかの不幸が発生しているってのも、それはそうだろう。学校に通わない自由が存在しているというのは紛れもない事実。でも、正しくメリデメを伝えずに、迂回方法を教えずに「行きたくなかったら行かなければいい」みたいな物言いをするのは断じて違うわ。YouTubeで金を稼ぐために不誠実なメッセージをバラまくのはテロリズムです。

コロナは風邪だって言ってるのと同じ。医者でもなければ患者の個別の症状も診ていないじゃないかあなたは。妙な事を口走るなよボケと。くたばれと。そう言いたいわけです。

少年革命家ゆたぼん先生の来世に御期待ください。