🐭新年あけまし…あ、まだ。…あけてない。そっか。🐗

2020年一発目の記事をどうしようかなと思ってたんだけど、「魂」という言葉について書こうと思った。

あ、あけてない。いやもうどうでもいいわ。知らんわ。魂について書く。

※「俺はこう感じる」レベルの話だから、真に受けないほうがいいよ。あえて辞書を引かずに書いてみる。あと、読みづらいわこれ。ごめん。

◆類語

「魂」に類するものとして「心」「精神」がある。なにか肉体とは別に人間が備えている霊的なアレ。なぜこれらの言葉は使い分けされるのだろうか。それはすなわち意味が違うからだ。

類語があると邪魔だから先に除去しておく。

▼心

ことわざでいえば「親の子知らず」だし、「三つ子の百まで」。

四字熟語では「疑暗鬼」だし、「和洋才」。

心と魂はどうやら違うな。

「真心(まごころ)」という言葉はあれど「真魂(またましー)」という言い方はない。

慣用句で比較すると

「魂の言葉」「心からの言葉」

という形になる。心のほうには「から」が付属する。「心の言葉」はしっくりこない。

▼精神

「精神衛生」「開拓精神」「向精神薬」

うむ。

精神は心の方向性みたいなものだろう。

◆選択

(魂に対する言葉としての)心について思うことは、それが俺たちの本質のようで、その実、本質ではないということだ。

俺たちがなにか大なり小なり選択をするときは、「理性」「感情(心)」を利用することになる。

まず使用されるのが理性だ。頭で考えて行動する。そして、しばしば心の動きが理性を上回って、理性で選んだ行動が変更されることがある。

それらとはまた別の次元で「魂の選択」があり得るだろう。例えば理性が拒んでも前に進めるし、心が拒んでも後ろに戻ってやり直せる。心じゃなく、知能じゃないもので判断ができる。それは魂を備えているからだ。

◆覚悟

覚悟の置き場所はどこだろうか。脳に置く?心臓に置く?

多分だめだ。覚悟はぐらつかない場所に置くべきで、魂に突き刺しておくのがいいだろう。

どういうことかっていうと、例えば理論の上に覚悟を乗せたられたんだとして、その「覚悟した(と思われる)行動」でヘマしたときに「理論が間違っていたのでは」という逃げ場が発生してしまう。自分に100%の責を負うことができない。

だから「別の理論に覚悟を載せればよかった」ってことになる。後悔になる。

心に置くなんてもってのほかだ。あんな不安定なものに自分の人生を預けてはいけない。

その点、魂には覚悟が丁度収まる。何かの取り組みが失敗してもアレコレと後悔をせずに済む。なぜなら魂の成したことはそのまま自分の成したことだからだ。

誰のせいにもできない。時のせいにもできない。心のせいにもできない。理論のせいにもできない。だから魂の選択では後悔がほぼない。魂の選択は時間がかかるし手間だけど、後悔を最低限に収めたいときは便利ね。

覚悟なく理性でなしたこと、心で成したことでは心を満たすことしかできない。自身を充足するためには魂で行動をしなければならない。

◆配分

魂で全部やっていけばいいって話でもなくて、「心から楽しむ」という言葉があるよな。人生を魂だけでやりくりしてたら感情なんて動かせないだろう。それはつまらん。

「心からの感謝」というのもあるな。感謝の気持ちは心から出すものだ。魂にも感謝はあれど、それを外に取り出すことはできない。誠意しか出すことができない。誠意だけで十分といえば十分だが、誠意は気づいてもらうことを目的としないし、言葉も必要だろうさ。心を感謝にしてそれを出せ。

また、内的な覚悟だけがあったとしても思考が足りていなければ、人に迷惑が掛かることもありうる。だからその次の覚悟が揺らぐ。覚悟を「足らす」ためには理性理論も必要だ。

◆所持

心は先天的に備わっている。理性は環境から得ることができる。じゃあ魂はどこからくるのだろうか。

それはよくわからん。考えたけどわからなかった。なんだあれ。子供でも魂を持てるし、大人なのに魂を持っていない人もいる。

そう。魂を持っていない人がいる。

心を持っていない状態も、理性を持っていない状態も想像できるだろう。じゃあ、心も理性もあって魂のない状態はどんな状態だろうか。

っつーので、逆に魂のある状態で何が可能であるか。当然ながら「魂の選択」をすることができる。あるいは、「魂のない行動」を選択肢から外すことができる。

「人から言われた行動」「心に流された行動」「利益だけを追求した行動」を選ばずに済む。魂で選んだ行動、つまり自分らしい行動をすることができる。

すなわち、心で決められないとき、脳で決められないとき、魂で判断が可能になる。し、判断速度が上昇します。精度が上がります。責任感が上昇します。

◆コントロール系統

心は理性でコントロールされる。だが、魂は「自分」の管理下に置かれていなければならない。「魂のせいで」は通じない。それ以上掘り下げられないから。

心は揺らぐ。理性と知識でコントロールしてあげないといけない。魂は揺るぎない。揺らいではいけない。逆説的に、揺らぐものも老朽化するものも魂ではないわけだ。見分けるコツだな。

◆犯罪

心と論理は犯罪の原因になりやすい。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。

その「罪」が心の動きによるものであっても、魂によるものであっても、憎みようはない。心って簡単に変形するから、どんな残虐行為でも心でやれちゃう。頭脳でやれちゃう。

魂による罪は、憎む必要がない。誰に言われることなく自分で自分を罰することになるから。

魂さえあったら心を止めることができたことができたかもしれない。だとすれば、魂がないことを責めることはできるんだろうか。心に操られてやったことじゃないか。心が行動を操ることをその「理性」で止めたとしても、心では既に犯罪を敢行してしまっている。罪悪感は募るばかり。

魂が必要だった。犯罪するにも、覚悟の下で罪を犯せたから。

◆心と体と魂

魂を否定されると、魂を捻じ曲げられると人は死ぬ可能性がある。それが魂を持つデメリットだ。

魂を壊すには心を壊すのが早い。心を壊すには体を壊せばいい。

しょうがないね。体に縛られている以上、体を壊されると連鎖して魂も壊される。つまり、子どもの身体的自由を奪えば心の自由が奪われて、魂が成長しなくなる。

魂を過信することもできない。壊れるときは壊れるから。どうしろっていうんだよな。

ただ、心が枯れてても体がだるくても魂で動けるね。魂から湧く気力で生きていくことができる。

◆魂のこえ

人の話していることが、魂の話なのかどうか。

お前が感情と理論でしか話せないからと言って、はなし相手が魂で話していないと考えるのは早計だ。

魂で話しているかもしれない。どっちか判断しろ。

◆ほかの魂

魂で何を判断するのか。それすなわち他人の魂です。あと自分の人生。人生はほぼほぼ自動で選べる。魂があれば問題なし。だから、他人の魂の話をする。

自分とかかわる人間の魂を知っておかないといけない。信頼してて裏切られると困るでしょ。魂を知るまでは、裏切られるほどに関係を深めてはいけない。心と理性で全部決めてる人間に心を開いてはいけない。絶対に揺らぐんだから!お前との関係に利がなくなったら切られるんだから!

打ち解けるだけにしておけ。楽しいところだけ楽しもうや。腹八分目で納めとけ。心を開くな。

冷たく接しろとは言ってねぇぞ。判断しろと言っている。「どこまでの付き合いが可能であるか」を調整しろ。痛い目に合うから。

◆人間観察

体の形、心の形はアテにならない。魂の色を聴かなければいけない。はなしていることと行動から。

それは聞けばわかる。見ればわかる。そういう視点を持っていればわかる。

心だけで可能な行動。理屈だけでできる会話。財力だけでできるプレゼント。魂はあった?どう?

行動に魂を見出さないといけないよね。

ただ、「魂を隠しきっている」「魂を持っていない」の判定が難しい場合がある。うまく隠されていた場合は判別できないと思っていい。でも「魂を持っていない」「魂が隠れている」という2択まで絞ることができるよね。

その人の体をみて嫌悪しているのは心だ。その人の心をみて「こいつヤベーやつだな。触らんとこ。」と思うのは理性だ。その人の魂をみて「コイツだな」と、魂を選んだのは自分の魂だ。

魂がゲシュタルト崩壊してきた。

◆自分の魂

いや知らねぇし。自分の色くらい自分でどうにかしろ。培え。

己が心を観察しきれていないならまず心を見ろ。理が巡っていないんなら過剰にでも巡らせろ。そっからどうにかしろ。

◆ブログ

魂で書いてる文章、心で書いてる文章、理性で書いてる文章。あるね。それぞれが混ざり合っていることももちろん。仕事もそうだし趣味もそうだし、人生がそうなっている。

◆結論

そんな感じ。テーマが壮大すぎて何一つまとまらなかった。締まらねぇな。まぁいいや。気が向いたら加筆する。

来年の俺もそんな感じだぜ。よろしくな。