人は、人に対して「良い」だの「悪い」だのっていう評価をすることがある。人と人の間に例えば価値の差があるものとして、それを値踏みしているわけだ。

「良い」と評価されたら嬉しいだろうし、「悪い」と評価されたら悲しい気持ちになって怒ったりするだろう。

◆評価

例えば、病気の人間と健康な人間に、価値の差は発生するだろうか?

実際に差があるかどうかはどうでもよくて、現実に存在しているのは「差があると思う人」と「思ってもみない人」だ。

思ってもみない人は「本当の事言っただけじゃん」とヌケヌケと言って見せる。この認識差はどうしたものだろうか。

…差があると思いながらYAIBAを突き立てる人もいるけどね。

◆どこに興味が置かれているか

よく聞かれる男女の傾向として、以下がある。

男性は問題の解決に興味をもち、女性は心情を共感してもらおうとする。

会話の支点をどこに置くかで、あるひとの病気は「議論の前提条件」になったり「陰口」になったりする。

「テンプレート的女性」なるフェミニストが激怒しそうな存在があったとして、その激怒に共感しつつ以下の会話を見てみよう。

女性A「隣の家の息子さんがうつ病で引きこもりになっちゃったらしいわ。」
女性B「それは大変。」
女性A「最近ひきこもりの犯罪って怖いじゃない。心配よね。」
女性B「心配よね~。」

これは、陰口だろう。クソほど意味がねぇから。
他人の人生を利用して、自分の境遇に共感してもらう事しか考えていない。あるいは会話をもたせるため。あるいはシャーデンフロイデ(※他人の不幸を喜ぶこと)。あるいは自分が何か情報を持っているということをひけらかしたいだけ。

じゃあテンプレート的男性に対して任意の情報を提供した場合はどうなるだろうか。テンプレート的男性は己の思考をあなたに対して話すか、情報が足りない場合質問をするだろう。男性は会話に建設的な意義を求めている。

会話の支点が共感ではなく議論であった場合、そこに必要な情報は「陰口」になるのだろうか。

例えば、自分たちが置かれている状況を把握するための会話をすることがある。そこである人物の病気の話題を「陰口になるから」と話さなかった場合どうなる?状況把握に失敗するだろう。そういった場面では「本当の事」を言わなければならない。

◆本当の事を言ってはいけないパターン

▼続けて自分の意見を言う事が出来ないとき

事実の指摘しかできないとき。これは人が傷つくだけ。自分の中で筋が通っていて「意義のある発言」だと思っていたとしても駄目だ。「言及した意味」「そこから導出される次」を口で説明できないと、ただの陰口になりかねん。

「~ですよね?」と事実を突きつけるだけじゃ能が無い。こらえ性の無い犬かお前は。「そんなことわかっとるわチンカス。黙って犬用ちゅ~るでもしゃぶってろ。」と思われるだけだ。

「だから、これをこうあてがったほうが皆幸せになると思うんです」まで言及しろ。相手が思ってもない新しい視点をぶつけろ。

▼相手の口が軽い時

陰口になるか否かは、情報を与える相手にもよる。特に何も考えていない男性に「あるひとの借金」の情報を与えたとしても「マジヤバいっすね!」か自慢話か苦労話やらで終わるだろう。女性に話すと共感してもらえるだろう。どちらにせよ、自分がソースになって人様の情報を言いふらされるのはよろしくない。

具体的な例を挙げてみる。

Aが「Bについての個人的評価」を話して、Cの意見を仰いだとする。後日CがAのいない飲みの席で「AがBについてこんなことを言っていた」と言いふらしてしまったら、Aは「陰口を言う人」と思われてしまうし、Cも信頼を失ってしまう。相手を見定めないといけない。

▼自分の頭がよくないとき

問題の根っこは意外と深いことが多い。「本当の事」を言いたいのなら相手からよりよく情報を引き出さないといけない。また、聞いた情報をもとに十分に頭を巡らせ、登場人物の感情にまで思いを馳せないと、表面的な部分にしか言及することが出来ない。

▼相手の頭がよくないとき

真実に近づこうとすると、身もふたもない話になる。それについていけない相手に話しても「イヤなやつ」と思われてしまうだろうさ。

事実耐性がない人も危険だ。「ききたくない!」っつって心を閉ざしてしまう。

◆言葉のイメージ

女性を卑下するつもりが微塵もない文章があったとして、その中に「女性は論理的会話を苦手とする傾向がある」といった文言が紛れたとする。これにフェミニストは超反発する。「男は~が~であるという事実に気づいてないの可哀そう。。。」とかいう論点すり替えレスバトルに突入しようとする。

これはギャグか?マジでやってんのか?

その返し自体が非論理的、非生産的だ。

Google社員の「女性はエンジニアに向かない」文書問題について

上記のページも味わい深い。

逆に「男性はエンジニアに向かない」という文章をGoogleの女性社員が書いたところで、まず何にもならないだろう。たとい侮蔑が混じってもここまで大事にならない気がする。男性から文句があったとして「そう?別にそんなことなくね?」とか「いやでも言ってること違くね?」くらいのもんで済むはずだ。

その程度の反応のはずが、ブっ刺さりすぎでしょ。そこまで出血するとは誰も思わんわ。「エンジニアに向かない」という言葉のイメージが効きすぎた。「『女性は男性より劣っている』と言っているのだ」と、フェミニストに思わせてしまった。フェミニストという集団の傾向として、脳が論理的思考に向いていなかった。そも、女性がエンジニアに向いていないということを理解しておきながら、なぜ議題をぶつけてしまったのか。エンジニアに向かない人間に対してエンジニア的アプローチでもって建設的な議論ができると思ったのか。これもまた不幸な事故であった。議論ができずに主張しかできない人間は、優しく誘導してやるしかないだろう。じゃないとこういうふうに皆が不幸になる。正直に話しても誰も得をしない。

つらいし困る。「ある女性個人」について言っているわけではないのだ。でも女性はイメージ先行で怒ってしまう傾向にある。逆に「男性は身勝手かつ暴力的で常にエロいこと考えてる」というレッテルを貼られても、ブチぎれる人なんてそうそういないだろう。「そうなん?」で終わる。「男性よりも女性のほうが子育てがうまいから親権が優先される」なんて暴論がまかり通っていてもブチぎれないし、レディースデーなんてのに文句言う人もなぜだか見ない。俺もわりかしどうでもいいと思ってる。親権については性差別だから是正していただきたいけども。

また、例えば「AV女優」という職業を世の女性はナチュラルに下に見ているように観察される。下に見るのは別にいいんだが、全く何の疑いの余地も持たずに「AV女優は底辺職」的な認識をしているように思える。果たしてそうだろうか?「AV女優」という言葉に良い印象を覚えないのは、その人の世界認識レベルが成熟していないからかもしれない。その証拠にAV男優は世の男性の憧れの的だ。

いや意味違うか。

ちょっと話逸れたけど、言いたいことは「言葉のイメージ」で文章を評価するなってことだ。イメージに振り回されて沸騰しちゃうのはもったいないし恥ずかしい。言わんとしていることを読み取れ。読み取る努力をしてから、それでも怒りたいんなら怒れよ。

事実を言われて、怒りたい気持ちはわかる。でも事実は事実でしかない。そこに感情を上乗せしているのは自分だ。事実と侮蔑を噛み分けないといけないのだ。「ほんとのこと言っただけじゃん」を止められない以上、「ほんとのことだからこそ、こうしないといけないよね?」を打ち返せるように鍛えなければいけないんだ。いちいち怒ったり悲しんだりしてたらドンづまりだ。

◆不採用

悪い人間だから、劣った人間だから不採用じゃない。条件に合わなかったから不採用なのだ。

不採用なら俺だって悲しむけど、その感じている悲しみほどの大きさも価値もない。会社を恨むのもお門違いってものだ。条件に合わなかっただけ。条件に合う会社を探せ。条件に合う会社にクソの吹き溜まりしかないなら自分のスキルを磨け。

アピールの時間は限られているし、お前のすべてを会社が理解できると期待する方が間違っている。相手も採用だけで食ってるプロではないだろうし、アピールになるものはもっと即物的な実績、資格だろ。

お前らが無用に落ち込んで未練たらしく言い訳して恨み節をギシギシ奏でるもんだから、会社も不採用の理由を告げづらいだろ。お祈りメールで手一杯だ。だから自分に何が足りなかったのか分からなくなってしまう。

◆良い悪い

またもや話逸れるけど。物事の良い悪いについて。

まず、「道具」には良い悪いがある。「持ちにくいハサミ」とか「切りにくいハサミ」とか。そして、「製品」に良し悪しがある。「漫画」とか「映画」とか「システム」とか「ブログ」とか。

悪い「行動」もある。空き缶のポイ捨てをしてはいけない。

じゃあですよ?人間に「良い悪い」はあるんでしょうかね?

悪い行動をした人間は悪い人間であるか。悪い道具を作った人間は悪い人間であるか。

病気の人間は劣った人間であるか。

大学に落ちたら、就職に失敗したら、親の愛を貰ったことが無かったら「劣った人間」なのか?大学に落ちたら生きる価値が無いと思って自殺するのか?

個人的な意見だが、やっぱり人間に良い悪いは無いように思える。一例に過ぎないけど、「悪い行動」の発生源は低脳だったりする。低能の原因は家庭環境だったりする。悪い道具を作った人間も只の経験不足かアホなんだよね。詐欺を働く人間も「悪い」というかひたすらに知能が残念なだけだ。詐欺を働いて幸福を獲得できるってんなら知能が高いと言えるが、当然無理で。

しょうもない、何にもならないことをしているわけだし。

個を評価しようとしたときに「良い悪い」は残らなくて、「知能が低い」とか「病気である」という、いわば個性にしかならない。

事実についてどんな客観的評価をされようと、それについて怒ったりするのは違う。人間の良い悪いじゃないんだから。

だからニュースをみて「とんだ悪人がいたもんだ」と怒るのもちょっと違うんじゃないかと思える。ただ知能が低いのだ。あるいは何か事情があったか。報道されない事実があったか。わからんけども兎に角、悪い人間が見当たらない。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。そうだなと思う。人を悪と断じて憎んだとしてもどこにも進むことはできない。なにゆえ罪が発生したのか、なにゆえ低脳が発生したのかを考えないと仕方がなくない?
ただ、犯罪被害者はそうもいかないだろう。犯人が憎い。それもわかる。そして、憎む対象はもっと別のところにもあるのかもしれない。例えば幼児虐待やネグレクトが存在しない社会だったら、壊れた人間が発生、放置されることもなく、あの殺人は起きなかったかもしれない。じゃあ虐待が発生した理由は?それは貧困だったりしたのではないか?貧困は、民衆や政治家がお金を貯めるばかりで使わないから発生したんじゃ?じゃあなぜ人々は金を貯めるのか?

みたいな。いろいろなアプローチで社会を幸せにできたはずだった。

いいや。話を戻そう。

「あいつ浮気したじゃん」という「本当の事」を、どう利用するのかを考えないといけない。浮気という言葉のイメージでもって「浮気したから悪い人間」じゃあ足りていない。他の記事でもちょっと宮迫に言及したんだけど、浮気はすなわち「人の信頼を裏切るという性質(宮迫)」が析出した結果の宮迫だ。だから、宮迫を嫌うことは全くもって宮迫にならない。ただ宮迫を信頼しないだけで万事は宮迫なのだ。

悪い人って言われている人の大体は「哀れな人」だ。金やモノや名声を得てワキワキしても、幸せを掴むことはできない。「何でこの人こんな事したんだろう?」という疑問が先行すれば、人間を憎む事はなかなかに難しいのかもしれない。病気の人を見下すことも無いだろうし、腫れ物に触るような扱いも不要だ。背後には理屈があるだけだし、進む先にも理屈しかないわけだから。

◆好き嫌い

「本当の事言っただけじゃん」すると、言われた相手に「自分は嫌われている」「疎ましく思われている」という誤解が生じることがある。

そんなことは誰も言ってない。個性について言及しただけだ。良い悪いも好き嫌いも言っていない。

「言ってしまう側」は、そういう地雷を踏むな。踏んでもいいけど爆発するから、それ相応の覚悟で臨め。「言われた側」は、無理かもしれんがとにかく事実だけを認識しろ。

アイツ嫌いだっつって「悪意を持って言う人」は…
何がしたいの?

…疲れてるのか。そうか。
お布団を敷いたげるからちょっと寝てなよ。

◆結論

ブログ中毒か俺は。どういう更新頻度だ。