◆お断り

君たちはうんぬん」という題の本があるが、それとは全くもって関係がない。読んだこともない。

この記事を書こうと思った動機は、今日(昨日)の飲み会である。

俺が今所属している会社の飲み会の、その二次会(計三人)のことであった。

俺がちょっと前に提示した新規事業案についての話題になり、その提示した意図を俺が説明した。

この事業の意図を説明するために、まず人の生きる意味について説明する必要があった。なぜなら「利益第一」じゃないから。その二次会でそれについて言及した。俺は二名に「どう生きるか」について簡単に、足りていない時間の中で説明したのだが、どうも「仏教的思想だね」といった理解がされた。

違うんです。という反論をしたかったんだけど会話の流れ的にグダめいてもしょうがないんで別の話題にシフトするがままにしたさ。

◆この記事の意図について

生きる意味について。それをまとめる。

あんまりやりたくなかったんだけど、やる。でも恥ずかしすぎる。読まんといて。

というのも、たかだか26年しか生きてないわけだから、正解なわけがない。間違っているだろう。青臭いマンゴーなのかもしれない。それが恥ずかしい。でもさぁ。俺はもう追い込まれているんだ。26歳にして追い込まれている。しょうがないじゃん。だから語っておくよ。

そして仏教とは関係がないことを個人的に確認しておく。すべては理論だ。思想じゃなくて、理論。

あと、新規事業案が伝わらなかったから、もっと現実に落とし込んで、俺が今所属する法人に対して「事業」として説明をしなきゃいけないんです。その前に哲学しておく。事前に哲学してないと反論が容易。

そして、酔ってます。アルコールがかなり入った文章です。

そんな感じだよ!!

んで、この記事は、「この記事を読むテメーら」を想定読者とし、それらクソどもに説明をする体をとる。だから、丁寧めにいくよ。1から説明する。他の記事で話しちゃってることについても再度言及するだろう。

じゃあ行くぜ。

◆欲求

何がしたい?

という問いに対してみる。

この時点で大多数の人類が脱落する。お前らって何も考えてない。スコープを「日本人」に絞ったとして、でも日本人のうちの大多数は「何がしたいか」を答えることができない。

日々を、日々のまま生きている。

問いに回答できる人がいて、例えば、「金が欲しい」という回答がトップに食い込むかもな。

その時に「なんで金が欲しいの?」っていう疑問が挟まる余地がある。

疑問が挟まる余地がある時点で、その欲求は不正だ。

って感じで太文字にしてみたんだけど、この記事を読んでいるのも数十人で、そのうちの何人に伝わるんだ。わからん。悲しい。

いいやもう。読める奴だけ読め。

じゃあ、「何がしたい?」っていう問いを考え続けたときに、疑問が挟まらない欲求があるの?っていう新しい疑問が発生すると思うんだ。

A:「名誉を得たい」

Q:「なんで名誉を得たいの?」

うん。疑問が挟まるね。じゃあ次。

A;「嵐のコンサートのチケットが欲しい」

Q:「なんで嵐のコンサートのチケットが欲しいの?」

うん。駄目だね。

A:「寝たい」

Q:「なんで寝たいの?」

うん。駄目。

A:「生きたい」

Q:「なんで生きたいの?」

わぁ。違った。「生きたい」も生きる理由にはならない。

大抵のやりたいことには疑問が挟まる。

「やりたいこと」っていうのは、大抵それ単体では成り立たなかったりする。

◆生きたい

「生きたい」という欲求は、否定されうる。

「違う!」と感じた人。ごめん。本当にごめん。俺の言いたいことが伝わってないんだ。この記事を読み終わったとして、伝わらないかもしれない。それはごめん。

否定されうる理由はなぜか。それは、ちょっとネタバレになっちゃうんだけど、「死ぬまで不幸な人生」に意味がないからだ。

苦痛オンリーの人生には、意味がない。ずっと苦痛だから。っていうのをもうちょっと丁寧に説明する。

◆根源

疑問の挟まらない欲求。俺の思う根源的欲求がある。

それは「幸せになること」だ。

「金を稼ぎたい」も虚無。「大勢の人間を従えたい」も虚無。

全ての欲求は「幸せになりたいから」に収束する。

「なんで幸せになりたいの?」という問いは、無意味だ。なぜなら、その問いかけ自体が無意味になるから。「幸せになりたい」という欲求を疑問視した時点で、「なんで『なんで幸せになりたいの?』という問いをするの?」という問いを自らに課してしまう。

上記の言説はちょっとだけ難解だけど、まぁいいや。各自で考えてみて。

俺の世界では「生きたい」という欲求よりも「幸せになりたい」という欲求が先行する。

「生きなきゃ幸せになれないじゃん」と思ったかもしれないな。じゃあね?幸福が至高の欲求であったとして、その幸せを測るときに、どういう単位で計測するべきだろうか。それはすなわち「人生」が単位となる。その人生における幸せの合計値を最大にすることが、俺の思う根源的欲求なのだ。

だから、人生における幸福を最大化するために、しょうがなく生きているのだ。

逆に「死ぬまで不幸であることが確定している人生」を、果たしてお前は生きるか?そんなんなったら俺は即座に死ぬだろう。意味がねぇから。

想像力を働かせてくれ。死ぬまで不幸な人生を想像してくれ。お前がちょろっと考えてるよりも悲惨だ。なんの楽しみもないんだ。毎晩、寝れない。死のうか死のうかと、ずぅっと考えている。職場に行く。凄惨なハラスメントを受ける。死にたくなる。死ねない。生きないといけない。死にたい。

そうじゃなくて、「幸せか不幸か不確定な人生」だから、絶対に幸福になるんだという気持ちで俺は生きる。

それが俺の生きる理由だ

◆人生の目的のまとめ

俺が、俺の人生における幸せを、可能な限り多く得るために生きる。

そのためなら誰が不幸になろうが誰が死のうが構わない。世界が地獄になろうが、俺が幸せであれば何の問題もない。

全人類が死んでも俺が幸福であればそれは問題がない。

っていうのは、正しい。幸せだから。

◆利己主義

老人を騙して金を詐取しても、幸福ならOK。むしろ褒める。幸福を得ようと努力して、幸福を獲得したわけだから。

抽選でコンサートのチケットの購入権を獲得し、それを法外な値段で転売した。そして幸福を得た。最高だ。幸福になったわけだから。

幸福になれればいいのだ。誰がどうなろうとも。

◆幸福計算

新しい疑問が発生しただろう。

すなわち

幸福とは何か?

という疑問。

なにか、詐欺や転売は幸福じゃないような気がする。いや、幸福なのか?まだ判らないな。

◆快楽機械

有名な思考実験に「快楽機械」というものがある。

簡単に説明すると以下の通り。

脳には快楽を司る部分がある。そこに電流を流せば、最高の快楽を得ることができる。どんな快楽よりも強い快楽を得ることができる。

快楽が至高の価値である人がいたとして、その人は快楽機械を利用し続けるだろうか。

上記は「快楽主義」という哲学的立場に対する反論だ。

快楽機械も何か違うよね。違う気がする。なぜなら、幸福じゃないと感じるから。それが理由になる。

つまり、快楽機械に身を置かない快楽主義者は破綻している。アホ。

◆何が欲しいのか

快楽じゃなくて、何度も言っているけど、幸福なんです。

老人を騙して金を得ることは、幸福ではない。一番手近な理由は、「逮捕されるから」。逮捕されれば不自由になって、それは不幸だ。

じゃあ、「逮捕されない」とする。老人をぶん殴って金を強奪しても、逮捕されない。社会的にも非難されない。

誰かが落とした財布から金を抜き取って、自分のものにしてもバレない。

その時にお前はどうする?

金を、抜き取るか。

◆帰結

違うんだよな。お前は金を抜き取らずに財布を警察に届ける。

なぜか。それが幸福だからだ。

自分が幸福になるために財布を届ける。

快楽は幸福じゃないから、忌避される。快楽と幸福がごっちゃになっている人間は財布から金を抜く。

老人を騙しても、チケットを転売しても幸福になることはできない。他人を不幸にして得た金があっても、死ぬときには何の意味もない。幸福に寄与しない。快楽しか得られない。

虚無だ。

それをお前は感覚的に知っている。

自分が他人を害したとき、他人から自分が害されることを許可しなければいけなくなる。

幸福を得たとして、死んだとする。その人生はどうだっただろうか。その人生を批判することができるだろうか。

快楽を得ただけの人生はいくらでも貶すことができる。人生を貶すことは、可能だ。人道的に許されないが、人生を貶すことが可能だ。タブーであるだけで事実として可能だ。だけど幸福な人生は否定の余地がない。幸福だったから。

快楽を得ようとする行為は、幸福を得ようとする行為の前段に位置する。

例えば、スイカの真ん中を食べずにスイカを評価するようなもんだ。「スイカってうまいね!」っつって、真ん中の甘い部分を食ってないようなもの。それが快楽主義。

そして恐ろしいことに、快楽主義のまま死んだ人が大量にいる。お金を稼ぐだけ稼いで「人生って楽しいね!」っつって死んだ人が大量にいるのだ。

彼らは幸福を得る前に死んでしまった。スイカの甘い部分をちょっとは食べたかもしれない。でも、甘い部分のために生きようとは思えなかった。そもそも甘いも渋いも考えずに、「たくさん食べる」で人生を完了してしまった。

◆幸福の取得方法

幸福を得る方法がある。それは、他人に幸福を与えることだ。

ここが今回の記事を書こうと思った理由。

「えー?」と、思うだろう。「人によるのでは」と感じたかもしれない。でも、違う。これは単なる「理論」だ。思想ではない。徳とか善とか、そういうまやかしを除去して考えた末の理論だ。

他にも幸福を得る方法は存在する。でも、人生単位で考えたときに、最高効率で幸福を生産できる方法は「他人を幸福にすること」でしかない。それ以外にない。

そもそも、自分以外の人類がいない状態に置かれたとき、そこから幸福になることは可能だろうか。無理だろう。コミュニティの存在を前提として俺たちは存在している。そして、コミュニティが不幸であるとき、自分だけが幸福であることは、有り得るだろうか。

ないだろ。どう考えても。

逆にコミュニティ全体が幸福であるときに自分だけが不幸ってことも有り得ない。だから、コミュニティを幸福にすれば必然的に自分は幸福になる。コミュニティに存在する不幸を潰せば、自分がその不幸に捕まることはなくなる。自分の力を供出し、他人の不幸を除去すること。他人を幸福にすること。それが自分の幸福に繋がる。

自分が、他人を幸福にしましたと。じゃあ、他人にとっての他人は誰だろうか。自明のことであるが、それは自分だ。

「他人が自分を幸せにしてくれるとは限らない」と思っている人は、人生経験が浅すぎる。お前がこの記事を読める理由は、誰かが頑張ったからだ。誰かがインターネットを作ったからだ。意図したか意図しなかったかに依らず、誰かが誰かの幸福のために働いたからインターネットがある。テレビがある。

テクノロジーのおかげで電話ができる。スポーツの存在を知ることができる。紙幣が存在する。服を買うことができる。本を読むことができる。水を飲むことができる。コンビニを利用することができる。音楽を聴くことができる。

逆に他人の利益を害することは社会を後退させる行為だ。全人類が他人を害さなかったんなら、まず警察組織は不要だな?その税金を、賢い人間が賢く使う。お前の不幸を取り除くことに使える。

でも、今はそうなっていない。その理由は「快楽を得るため」に生きている人間がいるからだ。だからお前の幸福は本来よりも減退している。

◆だから

OKだろうか。理解できたか。

俺のやりたいことは、人類の不幸を除去すること。いま自殺するほど苦しんでいる人を救わないといけない。

心情的にもそうだ。不幸な人は、いてはいけない。生きとし生けるもの全員が幸福な人生を歩む権利がある。それを妨害するなにがしを俺は許さない。誰かの「不幸しかない人生」なんて俺は許さない。俺は助ける。助けるために生きる。

京アニの、放火あったじゃん。みんなが幸せについて本気で考えてたら、あれも防げるんだ。何らかの仕組みが整っていれば、どこかで止まったんだ。「は?そんな甘くねぇだろ」じゃねぇぞ。本気で考えてないんだお前は。児童虐待でガキが死ぬなんてのも、消せるんだ。未然に誰かが幸福を創造してさえいたら、あんな馬鹿らしい、しょうもない、ただただ悲痛でしかない事件は起きなかったんだ。

そういうことがあるたび俺は怒りに打ち震えている。犯人に怒っているんじゃない。犯人は不幸に飲み込まれた被害者に過ぎない。そういう不幸を野放しにしたお前らに怒っているんだ。不幸を消そうと思わなかったお前らを、行動しなかったお前らを、のうのうと生きているお前らを、俺は絶対に許さない。

そしてその「お前ら」の中に俺がいる。だから俺はひたすらに悔しく思う。俺が泣くのは、どうにもできなかったから泣くのだ。俺がどうにかしなければならなかったのに、まるでなんにもしていない。俺がその場にいたら絶対に助けた。だけど、俺はその場にいない。そういうことが毎日毎日、どこかで発生している。誰かが自殺している。誰かがイジメられている。誰かが虐待されている。誰かがレイプされている。誰かが戦争で死んでいる。それが、なんというか、あり得ない。そんなことがあってはいけない。

いやもういいわ。話もどす。

「新規事業案」っつっても、会社のプロダクトではない。公共のものだ。誰かを幸福にするための、切実な行為。それに報償が支払われる世界を作るためのものを作りたいんだ。

それはなぜか。俺が幸せになりたいから。

それが全て。それを実現するためなら俺はピエロにでもなる。金が必要なら金を稼ぐ。

すべてはHappyのために。これを、俺は人生を賭けて地で行く。なぜなら、それ以外にすることなんて一つも存在しえないから。

◆自己犠牲

人生をなげうつつもりは毛頭無いよ。

キモは「人生において最大量の幸福を得ること」だ。だから80歳くらいだったら爆死して世界を救ったりできるけど、まだ20代ですし。

いろいろ遊ぶよ。ブログもそのひとつだ。

遊び0の人生は、それはそれで幸福を逃す。とくに俺は不真面目だから、自分に合った感じにバランスを調整したいよね。

他人の為に生きるんじゃない。正義の為に生きるんじゃない。自分の為だけに生きなければいけない。そのうえで、何が一番自分の為になるのかを考える。自分の快楽の為に生きるのは自分の為にならない。自分の幸福の為に生きることこそ唯一至高の目的なんだ。そしてそれは、誰かの幸福を守り、誰かの不幸を取り除くことに他ならない。それこそが自分の為になる。

◆結論

楽しく生きたいなぁって。そして「あれ。金稼いでも意味なくね?」って思って、「なにすりゃいいんだっけ」ってなった。だから、他人を幸せにする必要があったんですね(メガトンコイン

これは、理論だ。つまり異論反論の余地がある。思想とか宗教ではない。俺が考えあぐねた末に出した結論。ありとあらゆる、思いつく限りの反論を自問自答した後に残った幸福論なんだ。そして、もう異論はないと思ってしまった。最後、納得した。そうだねっつって。

そういうことなんです。異論のない限り、俺はその理論に基づいて生きる。

俺はそう生きる。