「何のために生きてんだよ」とか「どういう人生だよ」とかいう文言をブログ記事上で何回か書いてたんだけど、それについて。

1.

困っている人を助けたいなぁと常日頃思っている。

困っている人っていうのは、まぁお前のことかもしれんし、遠く離れた国で戦争に巻き込まれている人かもしれん。

親に虐待くらっているひととか、学校でいじめられているひととか、ド貧乏な人とか、「どう考えても困ってるよなぁ」と思う。毎日思う。本当に毎日、どこかで頭をよぎるタイミングがある。誰かが不当に困ったり、悪ければ死んだりしているという不条理について。

困っている人をどうにか助けられないんだろうか?無理だと思う。たぶん遠いし。多いし。でもそれって、現実に落とし込むのを諦めてたんじゃなかろうか。人助けの事をずっと考えていれば、可能性はゼロではないんじゃないかと思えてきて色々とやる気になる。

しかし、考えても考えてもダメで、本当にしょうもないアイデアしか思い浮かばないなと愕然とする。せいぜい救えても1000人。そこからあぶれた人は不幸。いじめられて心がぶっ壊されて毎日泣きはらして一生心に傷を負う。そんな地獄が至る所に遍在している。例えば超能力でいじめの発生を抑えられたんだとしても、他の不幸はどうなる?

だとしたら、1000人しか救えないアイデアに身をやつすことは許されるのだろうか?まして誰も救えない事業に加担していいのか?

2.

毎日誰かを助けることについて考えていると、どうやっても助けられないひとの苦しみを想って気が狂いそうになる。気が狂うはちょっとハナシ盛ったけど、胸が苦しくなるし、「あぁ」って声出して気を散らしたくなる。残念。無念だ。己の非力を嘆くばかり。

募金っていうシステムあんじゃん?昔は結構募金してたりしたんだけど、いまはあんまりやってない。

俺がした募金は果たしてどういう用途に使われるのだろうか。それがわからないから募金ができない。アフリカの子供たちが、メッチャおなか空いていて、超困っていたとする。当然それを救いたいと思う。募金をする。その金でパンが購入され、アフリカの子供たちは数日生き延びることができる。

これは、意味があるのか?あるかもしれないけど、そこに金を使っていいわけ?そんなん無限に金が必要になるし、引き続き不幸だよ。

なんで貧困が発生したのか。それを考えてないんじゃないのか?それを考えずに飯だけ食わせればいい、注射だけすればいいってのはなんとも。

つまり、中村哲医師のペルシャワール会のような活動こそ支援されなくてはならない。戦争、貧困、不幸の根源を適切に突いた行動だ。真に「平和を願う」切実な行動で、それは不幸をドミノ倒しに消し去る。

「戦争は消すことができるのかもしれない」と思った。本当にびっくらこきすぎて体が熱くなった。「身が震える。」とはこういうことかと。

3.

アイスバケツチャレンジ。あれがなんとなく嫌なのは「ふざけてるから」だ。本来、人間は助け合って、想いあって生きていかなければいけない。そのことを知らない人間がやっているように思えてしょうがない。ALSの認知度は向上し、金は集まった。それはいい。だけど。

「キャットキリングチャレンジ」だったらお前らどうした?インスタ映えする多種多様な方法で猫を殺してからALS協会に寄付をするのか?…これは全く意味をなさない言説なんだけど、同じ文脈で語ることができるように思える。氷水被るってなに?「ALSの認知度上がったから、金が集まったからいいじゃん」は違うのでは?

「自分では何の行動もせずにキャットキリングチャレンジを批判するのはおかしい」と言われたら、「いや、なんで猫ちゃん殺さないといけないんだよ。関係ないだろ。猫ちゃん可哀そうだろ。」と答えるしかない。有名人が猫の死骸をもって「ALSの患者さんは頑張って!」と応援したとする。ALSの当事者が「あの有名人が猫まで殺してくれるなんて!」と勇気づけられたんだとしても、俺はモニターに向かって「猫関係ないだろ😿!!!!!!」と叫ぶだろう。同じように「氷水関係ないだろ」と思った。

つまり心から問題意識を持っていない。そういう人らが道楽でやっていることが、観念的には当事者たちを侮辱しているように感じられたのだ。暖かくて明るくて安全で高い場所から、寒くて暗くて危険で低い場所に金を投げて、それを凍えている人間に拾わせた。そして一番最低なのが、その”距離”を自覚していないことだ。「ぼくも氷水かぶって苦しいwww」って言いながら、無責任にも「頑張って」と言ってニコニコしていたのか?苦しんでいる人が常に世界に存在しているということを、氷水まで被っておいて3日たったら忘れたのか?

金に願いが宿ることもあるが、金で人心を踏みにじることだってできる。金が集まればオッケーってのは単純すぎない?

でも、お前もいままでの人生で見てきたように、社会にはいわゆるアホが多い。道徳心のかけらもなく、ただ生きてるだけの人間が大勢いる。それらを巧く操作して、意味も分からず募金させるのはアリだと思う。悲しいことではあるけど、だって彼らは普通に生きていても、他人を救おうなんて発想に至ることができないんだもの。隣人愛なんて微塵も持っていなかったし、言われるまで気づけないんだから、社会貢献させるには自己顕示欲を焚きつけて祭りにしてやるしかない。

彼らは「今この瞬間苦しんでいる人」のことなんて考えてない。「ALS患者と家族の苦しみ」について、どれほどの想像をしたのだろうか?苦しんでいる人を助けようとして氷水を被ったのか?病気と不幸を憎み、命と幸福を守るために考え続けた結果の答えがそれなのか?と、そういうことを考えたら謎の怒りが発生した。しかし当然のことではあるが、俺ごときが他人を断じることはできない。人生はその人のものだ。

人の心には愛が備わっているものだと、俺が買いかぶっていただけ。愛を与えるために誰しも生きているのだと、俺が勘違いしていただけ。本来自然に発生してしかるべき「他人を助けたいという気持ち」を、「正義」を、アクティビティに汚損されたと、そう勝手に思っただけだ。

だからボランティアもチャリティも気づいたときにやればいいだろ。俺はなんかもう無理だけど、普通はそれでいいはずだ。

4.

しかし、世間の人って人助けの事考えねぇよなと思う。というかそもそも「何のために生まれて 何をして生きるのか」を考えてない気がした。どこか他人事というか、自分の人生のくせに真剣に捉えていない。自分のためにすら生きていないような人が沢山いる。

テレビでさぁ、紛争の映像ながれるじゃん?あれみて「どうやったら戦争を無くすことができるのか」と、お前ら、思わないのは何故だ?

彼らは戦争したくてしてるんだと思ってるのか?殺し合いたいわけないし、憎しみ合いたいわけないだろ。殺ししか、憎しみしか知らずに死んでいった人間もいる。でもそんなのは許されない。誰しも幸せに、互いに助け合って生きていくほうがいいに決まってる。

苦しんでいない俺たちは苦しんでいる誰かを助けなければいけない。これを、なんというか…いや、強制はできないんだが、そう思わないのはなんで?そこに思い至らないのはなぜ?逆にお前が苦しんだ時どうするの?

脳の仕組み的に、あまり考えないようになってるんだろうか。辛い人のことを考えると辛いから。じゃあ俺がこんなに人助けのことを考えてしまうのはなぜだ。

5.

ヒトラーは困っていただろうか?」という事を考える。「ヒトラー困ってただろうなぁ」と想う。

ヒトラーが例えばまかり間違って、ユダヤ人を虐げなかったとする。日の当たる場所で新聞を読みながらコーヒーでも啜っている。そういう未来があったんじゃないだろうか。

ヒトラーは本当に困ってただろうなと思う。「加害者」って実は結構困ってるんじゃないか?なんで加害者になってしまったんだろうか。どこかで食い止めることは、誰にもできなかったんだろうか。

他人を不幸にしすぎたら死ぬしかない。人を蔑み、虐待し、殺してしまったんだとしたら、当然社会に殺されてしかるべきだ。でもやっぱり加害者も困ってたんだと思う。その根源に宿る不幸の理由を俺は呪わしく思っている。

ポルポト?そりゃあ困ってただろうね。本人に自覚があったかどうかわからんが。それを言うとお前だって実は加害者かも知れないし、実は困ってるかもしれない。俺は困ってるよ。困っている人が頭にチラついてしょうがないから。

俺が加害者になっている部分も多々ある。このブログとか。

「自分がしたことを誰かにされること」を、恐ろしく思うか、楽しみに思うか。恐ろしく思う人生なら、きっと何時かその恐れていたことが起きる。俺だったらそのうち狂って、人を信じられなくなるだろう。楽しみに思えるんなら、それはうまく人生を選択してきているということだ。どうにも思わないんなら能動的な選択をしてこなかったってことでしょうね。

6.

「人助け」は愛かもしれないが優しさではない。俺にとって不幸が心情的に許せないだけだ。人を蹂躙していい気になっている「不幸」という調子に乗り腐った概念をひねりつぶしたい。という欲求。他人の不幸の除去を幸福に思うという偶然。だから、より強い幸福があれば他人のことなんてほっぽる。

ゲーム楽しいし漫画楽しいしブログ楽しいし。

でもなんか最終的にエンジョイしきれないのは、不幸な人が不幸なままだからだ。それが嫌だ。苦しみが不当に発生することは正しくないと思う。だから正したい。でもそこまで自分を犠牲にする気はない。

つまり全くもって「人助けガチ勢」じゃないんだけど、その俺にさえ負けてる人らがいるのは何なんだ?何を為すために生きてるんだ?ほかに何かやることあったっけ?

7.

なぜ俺は銀行員ではなくエンジニアをやっているのか。ITが楽しいからってのもある。そしてそれに加えて「IT技術の持つ可能性」が「銀行業務のもつ可能性」をはるかに上回っているからだ。やりようで大量の人間を幸福にすることができる。

※無論、ちゃんとやっている銀行も沢山ある。人の幸せのために働いている人が沢山いる。はずだ。

給料を稼ぐためだけの技能は人生に不要。いずれロボットがする仕事もしない。Salesforceを使っていた前職を辞めた理由もそこだ。アレは根源的に幸福を創出できるものではない。世界を前進させるものではない。利益を発生させるものだ。

そもそも俺にとって、生きるためだけの人生は不要だ。そんなもんを幸福とは思えない。ごめん。だが、それでも俺は他人と助け合って生きることを人生に望む。そして相手より多くの幸福を渡し、相手より多くの不幸を除く。それが俺にとっての勝利だ。他人からもらった幸福のほうが多かったなら負けだ。良い悪いとかじゃなくて、負け。

いつの日か体を動かせなくなったなら、頭が働かなくなったなら、そりゃあもう悔しくて泣くだろう。今はまだ出来ることがあるはずで、まだ救われる側にはなりたくない。その日が来るまで、手が届く限界までの人間を幸福にしなければならない。

俺は「何のために生きてるの?」と聞かれたら「自分が幸福になるために生きています。」と自信をもって言い張ることができる。だから、「60歳で定年」ってことはあり得ないし、「宝くじで10億円あたったら働かないで暮らす」も無い。何年たっても不幸の除去について考え続け、働き続け、自身の情報技術を高め続ける。

8.

ZOZOの前澤がTwitterで現金配ってたじゃん?

「商人なんだな」と思った。商才があったんだとしても、世界を前進させる知性はなかった。いつか聞いた他人の苦しみを、その身に感じるほどの感性はなかった。金をうまく使えば人を幸せにできるということに思い至らなかった。それが悲しい。

というか、何のために生きてるんだろう。何をするためにそこまで行ったの?コレガワカラナイ

◆以上

そういうこと。だから、よくわからん事してる人に対して「どういう人生だ?」っていう疑問が生まれる。

意味わかった?

…うん!そうだよね!わっかんないよね!

うん!おし!じゃあね!🤗