いきなりだが、東京事変の「群青日和」という曲のフレーズを引用する。

演技をしているんだ あなただってきっとそうさ

当事者を回避している

興味が湧いたって 据え膳の完成を待って

何とも思わない振りで笑う

東京事変 群青日和

(この曲とは関係なく)昔から思ってることなんだけど「牛乳パックを洗いたくないからちみっとだけ残して飲み切るのを他人に押し付けるやつ」とか「トイレットペーパー使いきったのに補充しないやつ」とか「コーヒーバリスタの水が切れてんのに補充しないやつ」とかがいるよね。

浅ましいにもほどがあるんだけど度々目撃されるし、何なんだろうかこれは。そういう人の頭の中はどうなっているんだろうなと考えると、なんとなく上記歌詞が思い出される。

「そういう行為が可能なひと」は、たぶんその「何も考えてない」んだけど、もう少し掘り下げて考えてみよう。

◆負荷を回避

「自分がやらなくても誰かがやってくれること」をやる意味はあるだろうか。自分がやらなくてもいいことをやらなかった場合、何が発生するだろうか。あるいは、人生に於ける「やったほうがいいけどやりたくないこと」を全て回避した場合、俺はどうなるだろうか。俺のとなりで生きている人はどうなるんだろうか。転じて、世界はどうなるんだろうか。

別に思いやりは無くていいんだけど、思いやりのない人は思いやりのない人達だけの国で生活してみてほしい。と感じる。なぜなら、気のいい人だけを思いやれれば要件は満足するのに、頭のない人を思いやってしまうオーバーヘッドが生じるからだ。

子供はいいよ。まだ最中だし。でもいいオッサンがみみっちい真似してるのを見ると、以後その人を思いやる行動はしづらい。思いやることを躊躇してしまう。「こいつアレだしなぁ」と思う。

浅ましいのは別に人の個性であるからどうのこうの言えないけどブログだから言うし、言わせてもらうけど、自分さえよければの考えは社会を悪くしてるよ。あと幸せにはなれないと思う。生きづらかろうて。

そも、幸せになろうと思ってないのかもしれない。なんとなく生きているのかもしれない。なんとなく、なんとなくで。

残念この上ない。長期的視点を持ち合わせていないし、合理性の深淵を覗こうとも思っていないでしょう。せっかく脳みそもらったのに使ってない。でも、まぁ、お金貰ったら使う。使ったらごはんとか色々手に入って楽しいから。果たしていいのそれで。

◆思いやり

思いやりとは何だろうか。いや、思いやりは何のためで、誰のためだろうか。

先人に聞いてみたところ、以下の回答を賜ることが出来た。

「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味である。

Wikipedia 情けはひとの為ならず

うん。そうね。

No act of kindness, no matter how small, is ever wasted.

どんな小さな親切であっても、それが無駄になることは決してない。

イソップ

そう。紀元前6世紀から2019年現在までずっとそう。

例えば、あなたが財布を落としたとして、太郎くんが拾ったと仮定する。あなたのもとに免許証やクレジットカードや現金や保険証が届くために、あなたに求められる条件とはなんだろうか。

これは「地域社会に於いてあなたが財布を拾ったとき、あなたがそれを交番に届けること。」が第一条件となる。なぜか。

つまり、思いやりを持てる人が地域社会に0人であると証明されている場合、あなたが他人を思いやる理由なんてないからだ。あなたが財布を落としても誰も届けてはくれないし、路上で倒れても、 夜道で襲われても、 バスの乗車賃を払えないことに気づいても、誰も助けてくれない。

聖人であっても財布を届ける意味はない。なぜなら、改善の余地のない人間の財布を警察に届けてもあなたの幸せになんら影響を及ぼさないから。

警察にモラルが無かったら財布を届けてもそれこそ意味ないし、信じるのは時間の無駄ってもんだ。

現在の日本の社会基盤は先人の思いやり、ひいては聡明、切実、良心、自律の上に成り立っている。「親切な人がきっといる」と根源的に信じられるから見知らぬ誰かを助けるために生きられる。自分の所属する社会に一人でも親切な人がいたんなら、その人の為に自分の能力を使おうと思えるだろう。

そして、あなたは拾った財布をどうするだろうか。拾って中身を抜いてゴミ箱に捨てるだろうか。 あるいは拾わずに無視するだろうか。困り果て、弱っているどこかの誰かを、 面倒だと見て見ぬふりして見捨てるだろうか。自分が困っている時は助けてもらいたいくせに!

◆こころに気づく

俺は会社のトイレを使うが、会社のトイレを掃除してくれている人をどのように捉えるべきだろうか。感謝するべきだろうか。いないものとして扱うべきだろうか。邪魔だと感じればいいだろうか。

道路工事のまわりで車や歩行者を誘導してくれている人を、機械でも見るように、「低所得者が」と見下げればいいだろうか。

これは、感謝しておいて損はない。というか、してもらったことについて気づき、感謝しておくに越したことはない。 口に出さなかったとしても 。

「仕事でやってんだろ。感謝する筋合いはない。」って、それはそうかもしれんが、あまりにも救いのない話だ。

「自分と関係ない人間には感情がない」と思っている人が多く見受けられる。そんなあなたにとって驚愕の事実ではあるが、人間誰しも感情はあるし、更に言えば、あなたの感情を察することができる。あなたのように。

「仕事でやってる人」に対して、全人類がつっけんどんに対応したら果たしてどうなるだろうか。「仕事でやってる人」はずっと他人のトゲに晒され、毎日つかれきって、それでも働かなければならない。当然、あなたの上司は部下であるあなたに対して「金貰ってんだろ」って態度で接する。「仕事でやってる人」はあなただ。

逆に、誰もが「仕事でやってる人」を思いやることが出来れば、仕事が存在する社会のうち何もかもの能率が上がるだろう。余計な仕事は減るし、 残業時間も減るし、鬱でガクガクしてる人も減るし、物理的に体調崩す人も減るし、病む人が減れば社会保障費は減るし働き手は増えるし、そんなもんだから税金あげなくて済むし。あるいは社会保障を厚くすることもできよう。

今のあなたの生活は働いている誰かの、その働きの上に成り立っている。さもなければ全人類いまだに其の日暮らしの狩猟生活だ。これに感謝せずして何に感謝するというのか。誰かのための仕事が全部がかみ合って世界は回っている。

誰かの思いやりなんて無くてもどうにかなると、そう思ってるなら大きな大きな勘違いをしている。人のちょっとした気遣いや、何時かの誰かが誰かのために拵えた労働の成果に気づけていないだけだ。思いやりを貰わなければ人間一人さえどうにも成り立たない。

思いやりを「貰う」「あげる」は背中合わせになっている。どうやって思いやりを貰うかではなく、どうやって沢山の思いやりを誰かにあげるかに全ては掛かっている。さっきも言ったけど、誰かにとっての誰かはあなただ。

ちょっとなんか説教みたいになってしまったけど、素晴らしいことに、他人を思いやることは楽しい。そこに苦痛はない。無償の思いやりに報償があるという証明を、俺は自分の人生に賭けて請け負うことができる。

◆ 当事者を回避している

何の話だったっけ(痴呆)

そう。「当事者を回避している」についてだ。「当事者を回避」とはなんだろうか?「興味が湧いたって据え膳の完成を待って 何とも思わない振りで笑う」とは?

考え始める糸口として、「『回避』が意識的であるかどうか」が分かり易いだろう。さっきまで俺がグダグダ喚いてたことに係るんだけど、この「回避」は無意識的なものだろうと思う。きっと「回避した!」とは思ってない。水が低きに流れるように、自然とパワーのかからないほうに向かってしまった結果が「回避」だろう。

「演技をしてるんだ」について、演技なんだから建前で、その裏には本音がある。本音は…というか、情動?
あなたのしたいこと、あなたの「夢」、あなたの望む「関係」 、あなたの「好き」 。そこに向かうための情熱があるはずだ。

あなたは「好き」を持ってるのに、ちょっと面倒で、何とも思わない振りをしてしまう。「えーあんなのスキじゃないよぉ」って、笑って誤魔化してしまう。あるいは「好き」なのに「ここが嫌い」って、距離をとってしまう。

好きが失敗することを恐れているのかも知れない。

向き合いたかったはずなんだけど、自分でも気づかないうちに「向き合うほど好きじゃない」って演技をしてしまう。時が解決するのを、好きが静まるのを待っている。「好き」が汚されても何もしないし、「好き」が嘘をついても「嘘をつかれた。嫌い。」で終わってしまって、「好き」と戦うこともしない。「自分のほうが好き」も、したいような気がするけど、なるべく考えないようにしている。

そういうことだろう。

テーマと関係ないけど、ユリ熊嵐は面白いぞ。

◆ベーシックインカムと怠惰

「好き」をできなくなった人間、つまり何もすこれなくなった人間はどうなるだろうか。

「好き」が出来なくなったら、それは当然のことだけど死んだような人生を送るだろう。

いつか未来、ロボットとAIが発展して人間のする仕事が極端に減ったとする。そうなったらベーシックインカム制度が発生するだろう。多分。その時、あなたはどう生きる?何のために生きる?

俺が危惧しているのは、部屋に引きこもる人間が相当量いるんじゃないかってことだ。それはそれで個人の勝手なんだけど、そんな無色透明な人生って意味があるんだろうか?落ちてくるものを受け取るだけの人生だ。

とにかく「当事者を回避」する性質をもった人間が多い。 できれば物事に関わりたくない。面倒に関わって自分を減らしたくない。が、自分を増やそうとしない。人生を彩ろうとしない。

「好き」が可能な人間は勝手に動き回って勝手に頑張る。自分の能力を高める。問題を探す。そういう人間はベーシックインカムがあれば大助かりだろう。

回避させないために、強制的に大学かなんかに通わせるとかしなきゃヤバいことになると思う。受動的な人間には制度面から好きを探索させないといけない。その理由は、好きが無い人生なんて悲しいから。

◆かんちがい

「好き」を勘違いした人間はどうなるだろうか。

わかりやすい例でいうと「自分の好きなアーティストの不倫を肯定」する。

不倫は(セクロスしたとかどうとかは関係なく)いわば「人を欺き、信頼を裏切る性質を持つ」ことの証明であるのに、それを肯定する。それは、好きだから?そんなことはないだろう。そんなものは「好き」じゃない。

伴侶以外と交尾してもいいよ別に。伴侶が許すなら。あるいは伴侶と既に事実上別れてるなら。でも、嘘ついて、騙くらかして、裏切ってしまうのは人としてダメだ。ありえない。信頼できるかよ。できないだろう。だって…いざってとき裏切るよ。自分を信じる人間を裏切ったっていう実績をぶらさげてるんだよ。本人もダメだと思ってやってるんじゃないの。思ってないならサイコパスだ。

不倫したからってファン辞めるなんて、本当のファンじゃない。
…んだとしたら、「本当のファン」であることにどれほどの価値があるだろうか。誰かにとっての価値だったんだとしても、絶っっっっっ対に「好き」の持つ力じゃない。本質不明のマヤカシから生まれる価値のようなものにしかなれない。だって誠意じゃない事、本質じゃない事から生まれる価値に本質があるだろうか。断言させて頂くけど、無いよ。水が欲しいんであってオアシスが欲しいわけじゃなし、まして蜃気楼のオアシスに熱狂するのはジョークにしても趣味が悪い部類だ。

自己承認能力に不備があるから「ピザポテトのファンである自分」の価値を固定しようとピザポテトに執着する。あるいは 「ピザポテトファンの集まり」という集団に己の意味を見出してしまったが故に、そこを離れることで発生する一時の孤独を恐れている。ピザポテトうまいよね。

ひとえに錯覚であり、空虚な偶像崇拝だ。「バイク好き」が、マフラーを改悪してデカい排気音を出し、その整備不良のバイクで真夜中に珍走するようなものだ。 なにが「好き」だったかなんて忘れた亡者は、本当の「好き」をもっている人にとっては邪魔でしかない。

「好き」を勘違いしたら、イキイキと、ゆっくり、人生に於ける大切なものを取りこぼす。自分の信じるものを見失う。人生を失う。

「まわりが好きだから好き」は遅れてる。人が人たるゆえん、存在証明は、それが他者ではなく自分で考える能力を持っているからだ。主体的に判断し、選択できる。そして畜生にそれは叶わない。それで言うと、盲導犬であるところのサーブは己の信じる「正しさ」を基に主体的な判断を下し、するべき事をした。瞬発的な判断と躊躇ない行動を可能にしたものは、信念に他ならない。(人間に益するかどうかは関係なく)信念を持つ犬をケダモノとして扱うことは到底許されないし、そして、信念を持つ人間が果たしてどれほどいるだろうか。

自分の限りある「好き」を、一体どこにどう費やすか。「好き」を沢山好きするためにどういう行動を選択するか。これはもう人生の在り方に関わってくるんじゃないですかね。

◆結論

まわりを良く見て、どうすればいいか考えてほしい。当事者になってほしい。面倒だって思うかもしれないけどね。でもそれはやってみてから考えるんでも遅くはないんじゃないの。逆に「やらない」ことで間に合わなくなることは沢山ある。

考える人が増えれば社会が良くなって幸せな人が増えて俺が幸せになる。だから俺のために頑張ってくれ。

あと、人と生きる人。あなた以外の人間があなたの人生の「当事者」であり得ることを許して欲しい。強制はできないけども。でも、自分に関わろうとしてくれている人間がいてくれるんだったら、ちゃんと向き合ってあげなきゃ悲しいでしょう。

そう思いました。(作文)